喜安朗『パリ:都市統治の近代』

パリ 都市統治の近代 (岩波新書)

パリ 都市統治の近代 (岩波新書)

 17世紀後半以降の絶対王政期から、最終的にオスマンのパリ改造に帰結する、パリの統治の変遷を描く。「機動的ポリス」をめざす王権やその後の政権の志向、パリの社会構造の変化、地図や数値による統治技術の適用といった観点から描かれる。
 本書で描かれる「ポリス」とは、警察だけでなく、インフラの維持管理も含めた統治全体を指す。戦前の日本の内務省が治安からインフラ、地方自治など幅広い職掌を持っていたのは、この考えを取り入れていたのだろう。ドイツ語ではポリツァイとして議論されていたはず。
 街区共同体や同職組合を中心に人間関係がわかりやすい状況から、階層分化と外部からの家事奉公人などの人口流入による社会の流動化、フランス革命後は流動化が一層進む一方。共属関係などのアソシアシオンによる労働者階級の結合関係へと変化する。著者の以前の著書『夢と反乱のフォブール』でもこのあたりが扱われている。
 この中で、統治側は一貫して統治を社会内まで浸透させようとするが、絶対王政期には限定的で、むしろ「合議的ポリス」が正当と認識された。フランス革命後は、社会の変化に伴って「機動的ポリス」への動きが強まる。
 また、数値や地図データを利用した技術的統治の導入も、セーヌ川の物流の改善から導入が進み、交通から給水、下水と、都市インフラの課題は変遷していく。この中で公衆衛生学が統治に利用されるようになり、身体的規律化や社会的排除が進むようになる。このあたりは、『感染症の中国史』と重なる問題。公衆衛生は支配と密接に関連し、場合によっては社会的排除や差別の助長になってしまう点は留意すべき問題。「生活文化」「慣習」と公衆衛生の知見をいかにすり合わせるか。一方的な身体的規律化の押し付けにならないようにすることの重要性。そう言えば、自称無臭のマジョリティが「スメルハラスメント」とかいう怖い新語を開発なんてのも、これにつながる問題なのかもな。


 以下、メモ:

モンマルトルやベルヴィルなどパリ市に隣接する台地に家屋が増加したため、降雨の際に台地の水がいっきょに激流となって流れ下り、市中の下水道をあふれさせることになる、といった下水道の危機的な状況である。p.142

 これは現在の日本の都市が直面している状況だな。どこでも同じようなことが起きているのな。

 一八二九年から発行された『公衆衛生学・法医学年報』は、その創刊号の冒頭に「発刊趣意書」をかかげるが、それは公衆衛生学が公序良俗のために行政当局者に協力しなければならなぬことを強調している。それは公衆の健康を保持するという面で多大な前進をとげただけではないとして、「公衆衛生学は生活習慣、職業、社会的地位が人びとによって微妙に異なることを調査し、国力や富の増進に役立つ意見や助言を提起する。それはまたモラリストを啓発して社会的欠陥を縮小するという高貴な任務に力をそえるものである。過ちや犯罪は社会の病いであり、それは治療する必要、あるいは少なくとも減ずる必要がある。この治療の手段は、……生理学や衛生学が統治の技術にその知識を提供したときにこそ、大きな力を発揮するのだ」と述べている。p.146

 ヴィレルメはさらに一八三二年のコレラ流行に際し、パリのホテルや宿泊所でのコレラによる死亡率を調べ、下級の宿泊所の共同部屋に住む貧しい労働者や、また「一夜の泊り」と俗称される貧民宿の「盗人、浮浪者、売春婦」に死亡率が大であったことを、一つの例外を除いてすべての街区について証明する報告を、一八三四年に公表する。ヴィレルメはそこできわめて冷静に数値をあげていくのだが、貧困な者において死亡率は高かったという結論を述べるにあたって、その冷静さを踏み出す次のような指摘を突如としておこなう。「コレラはとくにその犠牲者を、貧困と同時に彼らの不道徳のために社会に敵対する行為を犯すまでになった者たちのなかから選び取り、それによってこうした者たちを社会から取り除くことになった。これはまことに、コレラによって生じた甚大な災難に比するとき、少しは社会に益することではあったのだ」と。p.150

 当時のパリの商工会議所を代表していたオラス・セイもこれに声を合わせるようにして、一八四六年に公刊した『パリ市の行政』という著書のなかで、より具体的なことを言う。それは、より安価な水がもっと豊富に供給されねばならぬこと、また、それによって貧民の住む地区に洗濯場と安い公衆浴場を設置せねばならぬことを説きながら、「清潔の習慣は高度な見地からすると、怠け癖と悪しき行為に対する歯止めとなる自尊心を育むという点で、モラルを善導するものなのだ。自分の身体に注意を払う者たちは、つねにしまりやで堅実なものである」としてきするものだった。ここであからさまになっているのは、民衆の身体の規律づけという公衆衛生の戦略であり、都市基盤のシステムとは、その戦略を可能とする都市に張りめぐらされる網の目となるものであった。p.156-7

 公衆衛生学の権力性について。同時に、公衆衛生学が差別と偏見を助長している点も注意すべきだろう。このような学問による差別の助長は、社会ダーウィニズムなんかも同時期に見られる。都市計画なんかにもその傾向はある。また、新自由主義の自己責任論や現在の遺伝学なんかも、そういう事態を生んでいるな。

 このようなことは、戒厳令のもとで逮捕された者に対する予審尋問記録を精査することで、はじめて明らかになってくる。そこにはきわめて多様な民衆次元の社会結合関係が、重層的に重なり合っていたのである。それは民兵の中隊、クラブ、壁紙製造工の労働者組織、新聞編集といったアソシアシオン的結合のなかに重層的に編み込まれた人と人の結合関係であった。p.205

 二月革命に続いた六月蜂起を支えたもの。労働者階級のアソシアシオン的結合が露わになる。

 しかしこの法律を支えていたのは、市民社会では国家と法の前の平等を体現する個人があるのみで、その間に中間団体が存在する余地はないという、市民社会についての理念であった。この法律を提起した際にル・シャプリエは次のように言明する。「もはや国家の内部に諸団体(コルポラシオン)は存在すべきではない。そこに存在すべきは各個人の特殊利益と全体利益のみである。何人たりとも市民に中間的利益を鼓吹すること、また団体の精神によって市民を公共性から遠ざけることは許されない」と。p.206

 なんというか近代思想の陥穽というか。新自由主義にも同じような傾向があるような。

 このようにパリの住民の意識化には「合議的」ポリスを正統とする観念が潜在し持続していたために、ポリスの権力を突出させた実力行使には反発する住民が多かった。とくにそれが住民の居住する街区の内部に侵入してくるときに、しばしば激しい敵意を表わすものとなった。十八世紀の前半にこの敵意が露わになったものの一つは、総救貧院制度にもとづく乞食の「狩り込み」に際してだった。
 パリでは一六五六年の王令で、ピティエ救貧院を中心にいくつかの救貧院を行政的また宗教的に統合して、この制度が始められた。パリに流入する貧民の増大に対処するものであり、市内で職もなく放浪する者を、有無を言わさず捕縛・投獄し、強制的に労働に従事させたり地方に送り返したりしたのである。総救貧院制度のもとには乞食の「狩り込み」に専従する警吏がいて、当初その数は二〇人といわれるが、次第に増員する。
 十八世紀に入るとパリの乞食の数は一七〇二年に九〇〇〇人、一七五〇年頃には一万五〇〇〇人と言われるようになり、この数値は取り締まり当局の強迫観念を表現しているとも思われる。流入する貧民は犯罪の温床になるという意識がポリスに定着し、乞食の「狩り込み」は厳しいものになった。こうして一七二〇年に総救貧院制度による取り締まりの権限が警察総代官の手に帰するものになった。そして一七二四年七月の王令で、健常な乞食は一五日以内に職につくこと、それでも再度乞食をした者、また身体障害者をよそおって乞食をした者は五年間ガレー船で奴隷のような漕手として服役する漕役刑に処す、ということになった。
 これ以前、一七一七年から放浪者や乞食をアメリカ大陸の植民地開発のための労働力として移送するという提案が出されていた。捕えた乞食を植民地に送り強制労働をおこなわせるというのである。こうして一七一九年には、裁判官は漕役刑に処せられた者を植民地に送り込むことを命ずることができるとした国王宣言が発せられる。こうなると総救貧院制度によって狩り込まれた乞食は、植民地に送られる可能性が出てきたことになる。パリの住民にこれはすぐに知れわたり、嫌悪感を込めた「ミシシッピ送り」という言葉が彼らのあいだから発せられることとなった。p31-32

 すぐにパリで移民の募集が始まるが、パリの区役所からは冬が間近に迫り、生活の方途を失った人びとに対応するために、人員の増加が要求され、一万三五〇〇人引き上げられる。そして応募者はセーヌ県、つまりパリの住民に限られることになった。これはもはや、六月蜂起後の秩序を修復するために、危険な貧民をパリから排除する治安策の色彩を帯びたものとなっていた。p216-7

 つまり、六月蜂起に対する戒厳令と正規軍を中心とする軍事作戦によるその鎮圧と、その直後に実行されたパリの生活困窮者の排除という治安策が、アルジェリア植民地の平定策とまったく同心円を描くようにして、第二共和政の国民議会と陸軍省を軸として展開されたということである。
(中略)
 こうしてナポレオン三世は、フランスが植民地帝国としての地歩を固めたことを内外に誇示しながら、ヨーロッパの列強諸国と対峙し、フランスの国民国家としての力と威信を、その国際政治の中で維持することに務める。
 このようにみてくるならば、一八四八年はその新たな植民地経営とともに国民国家としてのフランスが大きな転換点にさしかかっていたことを意味している。そしてパリの統治はまさにこの転換の焦点として問題になったのであった。首都パリの統治とアルジェリア支配とが、フランスの共和制議会と陸軍省の主導のもとで、相互に直接的な連関をもつに至ったという事態は、この転換の重要性を示すものである。統治の権力からすれば、それはもはや一方にフランスがあり、他方にその侵略を受けて植民地化するアルジェリアが存在するというものではなくなっているのである。パリ蜂起の鎮圧とアルジェリア征服は一体化しているのであって、いささか極端ではあるがわかりやすい言い方をすれば、統治の権力にとってパリはアルジェリアであり、アルジェリアはパリとなっていることをそれは意味していた。p.219-220

 近代のパリが二度にわたって大規模な排除を行ったことは記憶にとどめておいても良いだろう。また、その植民地主義との関係も。また、前者は『近代世界と奴隷制』(ISBN:9784409590010)の白人奴隷制とつなげて考えることができる。

感染症の中国史 - 公衆衛生と東アジア (中公新書)

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