重松伸司『マラッカ海峡物語:ペナン島に見る多民族共生の歴史』

 なかなか、ガチの歴史書マラッカ海峡の歴史的位置と、1786年にイギリス東インド会社の植民地となったペナンにおける各地からの移住者のプロフィール。17世紀以前にしか興味が無かったので、ここらあたり全然知らないから、非常におもしろい。
 「共生」しているかというと、結社どうしの対立とか、械闘とかを考えると、出来てないんじゃという感もあるが。あと、エスニックグループよりも、経済的結びつきのほうが重要だったようだが、それはそれでゴリゴリの搾取が行われているわけだしなあ。


 前半は、マラッカ海峡の地理的性格とペナンとその中心集落ジョージタウンの歴史。
 マラッカ海峡には、モンスーンによって、インド方面とジャワ海方面からの航海者が集まるようになっている。それぞれ、南西と北東モンスーンによって、年に一往復が可能。インド洋とジャワ海で、吹く方向が違うというのが、自然の妙だなあ。
 また、マラッカ海峡は、南北で潮流や深さが違い、ペナンは、風待ち港として非常に有利な場所に合ったこと。そのため、ペナンに目を付けたイギリス人フランシス・ライトが租借地として確保。そこから、急速に各地の商人が集まって、一大拠点となる。
 ヨーロッパ系は1割程度で、大半がインド亜大陸の海商や華僑、アチェなどから来た東南アジアの住民だった。1000人程度の住人しかいなかった島が、あっという間に人口数万を抱える国際交易都市に変貌する。そうやって、急速に都市化しただけに、インフラの整備は常に課題で、そのための財政基盤の構築が、ペナンの政治史の基調になる。
 華僑やブギス人、アチェの商人、インドの各地の商人が最初に集い、それを治めるために、インドから囚人を受け入れて労働力としたり、インド人傭兵や警官を受け入れる。こうして、さまざまな民族が混在する都市が出現する。イギリス植民地にとっての、インド人と華僑の存在意義の大きさ。マレー系の人々は使いたくなかったのね。
 最初は、コショウのプランテーションとして利用しようと目論んでいたのだが、ナポレオン戦争で頓挫した話やビンロウの産地としての重要性なども興味深い。
 風待ち港として有利で、ここまで発展するポテンシャルを持つ地が、それまでほとんど無視されていたのはなぜなんだろう。


 しかし、改めて地図を見ると、スリランカアチェって、同じくらいの緯度で向かい合っているのだな。西から来た人々にとって、アチェが入り口として重要だった理由がよく分かる。
 あとは、インド東岸が、海上交通にとっても、陸上交通にとっても、難しい土地だったという。航海するには、港に適した場所が少ないし、遠浅・岩礁で危険性が高い。かといって、陸路は川や湿地に分断される。結果として、あまり歴史的に目立たないとか。


 後半の第二部は、ジョージタウンに集ったさまざまな人々の姿。ペナン植民地当局は、雑多なユーラシア系の移民の直接統治を嫌い、それぞれのエスニックグループに対して、代表者「カピタン」を任命して、彼らに、細々とした問題を委ねた。結果として、中国系の秘密結社など、さまざまな組織・派閥が出現して、手に負えなくなったという。19世紀後半になると、中国系の結社の抗争が頻発する。ペナンだけでなく、マレー半島全体で華僑系の結社の血で血を洗う抗争というか、抗争を通り越して戦争を起こしているが、実際にどんなことが起きたのだろうなあ。そして、今に、どんな影響を残しているのか。


 章が当てられているのは、日本人、アルメニア人、華僑、インド系。後二者は、実際には、多層的な集団と言えそうだが。
 19世紀後半から20世紀に、ペナンに流入した日本人移民。初期には、からゆきさんが多かったそうだが、どういうつながりで、移動したのだろうか。あとは、歯科医など医者が多いのが興味深い。
 アルメニア人も興味深い。イギリス商人のパートナーとしてインド洋に進出。砂金やアヘン、スオウなどを中心に細々した品物を、回して、鞘取りする、さまざまな家族的な商会が存在。一時はアンチモンの独占なんかもやっていた。ペナンは、マラッカ海峡の入り口として、電信が引かれ、情報が集約する場所だった。こういう、近代的通信システムと家族経営の商会の結合がおもしろいなあ。とはいえ、最終的にアルメニア系の商会は、規模を拡大できず、華僑系などの商社に飲み込まれていく。ラッフルズホテルを建設したホテル王、サーキーズ兄弟の創業の地もペナンなのか。
 華僑に関しては、カピタンに任命された名士を中心に、商会。大商人・富豪であると同時に、会党の首領として裏社会にも関わりを持つ。また、これらの会党は、宗教や社会福祉の結合ももたらした。しかし、19世紀も後半になると、社会騒擾が頻発するようになって、当局による力の統治に変わっていく。清王朝の、領事などの外交官職の売官も興味深いなあ。日本の武士が朝廷から官位を受けたがったような感じが。
 最後はインド系。インド人相手の金融をメインにしていたチェッティやタミル・ムスリムの海商チュリアなどの商人集団。そして、それらがモスクやナグール廟といった宗教ネットワークを通して、組織化されていた姿。


 そういえば、参考文献にアンソニー・リードの『大航海時代の東南アジア』が挙げられているけど、これ、日本史の先生が翻訳して、誤訳がめちゃくちゃ多いと不評だったんだよね。その後、なんか、改善されたのだろうか。ネットを見るに、あまり変わってないようだが。

 この交易の中で重要な位置を占めたマレー産のスオウは、それ自体がマレー・インドの産品を結びつける重要な媒体であった。この商品の多元的な有用性について触れておきたい。
 スオウ(蘇芳)はソボク(蘇木)とも呼ばれ、古来、中国では下痢止め剤として赤痢腸炎に効能があるとされていた。しかし、東南アジアでは一般的に、スオウの芯材は赤色・紫色の染料として重宝された。錫を触媒として利用すると、スオウは深い赤色を発し、濃厚な色彩を生み出したのである。それはインド産の綿布とマレーの伝統的な織布・染色技術と結びついて、東南アジア産の国際商品を生み出すことになった。
 一九~二〇世紀のマレー半島における最大の鉱物資源の錫は、金属製品の原材料だけでなく、東南アジアの織物産業とも強く結びついていたのである。p.205