藤原辰史『稲の大東亜共栄圏:帝国日本の〈緑の革命〉』

稲の大東亜共栄圏―帝国日本の「緑の革命」 (歴史文化ライブラリー)

稲の大東亜共栄圏―帝国日本の「緑の革命」 (歴史文化ライブラリー)

 育種という科学技術が、単なる新しい種類の作物を供給するだけではなく、肥料の投入量や水利施設などの農業経営のほかの要素をもある程度規定していくこと。それによって、農村の空間や慣習などを改変していくものであったこと。また、近代技術によって育種された稲の品種が、日本の帝国主義支配における問題を解決するための手段として期待され、利用された状況が明らかにされる。また、このような戦前の日本の支配の手段としての育種というのは、戦後行なわれた「緑の革命」に通じる性格を持っていたこと。逆に、「緑の革命」を推進した人々の、そのような政治性・支配性に対する感度の低さも指摘する。
 丁寧に戦前日本の育種技術者の発言を拾っているのは興味深いが、一方でテーマからすると「改変される側」の描写が足りなかったのではないかとも思う。あと、『ナチスのキッチン』など、ドイツの近代史の本を書いてきた人だけど、この人の専門はなんなんだろう。
 結局、収穫量や食味が改善されると同時に、大量の肥料を要求する品種というのは、より大量の肥料を購入する必要があるため、それだけ農業にコストがかかり、リスクが高まる。さらに市場に緊密に結び付けられた結果、価格変動リスクに脆弱になる。単純な品種改良による増産という方法論は、農民の生活改善には結びつかないんだよな。むしろ、流通経路の改善やインフラ整備、土地や経営資源の公平な分配などの、本当に必要な改革を棚上げしてしまえるのが逆に問題なんだよな。あと、品種改良による増産の果実を一番得るのは、流通業者や肥料・農薬を生産販売する業者であるということも注意する必要がある。フィリピンの国際稲研究所やメキシコのトウモロコシ・小麦改良センターにアグリビジネスの資金が流入していることにも象徴されるが。
 このあたりについては天笠啓祐『世界食料戦争』や久野秀二『アグリビジネス遺伝子組み換え作物』が紹介されている。


 実例としては「富国」「陸羽132号」「台中65号」の育成とそれを担当した育種技術者の言動。さらに、永井威三郎の戦前戦後の啓蒙書類に見られる自民族中心主義。稲作・日本品種を文化戦争に結びつける言論が、寺尾博や永井威三郎に共通して見られるのが興味深い。
 また、肥料に反応して収量が増える品種が、農民に熱狂し、肥料を投入しすぎる状況。逆にそのような品種に対する、朝鮮や台湾農民の抵抗。特に、台湾での「蓬莱米」の導入は現地のインディカ米の生産消費の伝統との乖離や伝統品種の方が低肥料状態では収量が多いなどの理由から、普及が限られ、商品作物として生産され続けた状況も興味深い。


 以下、メモ:

 農業技術を理論的に考察した渡辺兵力は、このあたりのことについて、次のように述べている。「ある品種が与えられたとすると、もうそれのもつ生産性能以上の生産を実現することは他の技術的処置では不可能なのであつて、人為的になしうることはその固有の生産性能をできるだけ最大に発揮できるように最良の生育環を形成する、ことだけである」(『農業技術論』一九七六年。傍点は原文ママ)。つまり、品種改良技術の特殊性は、改良品種がその他の技術や技能の、いわば司令塔になる、ということである。遺伝情報は、単にタンパク質合成の設計図を提供するばかりでなく、モンサント社の例に見られるように、それを通じて、その品種に必要な肥料の量や水利施設の整備の度合いもある程度まで、「指令」できる。生産者がどれほど、近所の店に売っている農薬や肥料に慣れていてそれを使用したくても、あるいはその店主を信頼していても、品種と相性が悪ければ使えなくなる、それゆえ、優良品種は、日本が内地や植民地の農村に提供する農業技術のパッケージの先発隊であり、開拓者であり、また、司令塔であったということができる。東畑精一は、品種改良に偏る日本の農業技術を、欧米に対する後進性の現われとして見たが、私はむしろ、この技術に、現在の多国籍企業の種子支配に至るような、植民地時代が終わったあとの全世界を、薄くかつ広く覆う膜のような新しい支配形態の先駆性を見たい。寺尾が「稲も亦大和民族なり」と言い切ることができたのは、育種学がもたらす社会への甚大なる影響力に自覚的であったからである。p.12-3

 帝国主義支配の尖兵としての育種学。品種を通じて、当該社会の生産システムを支配できてしまうと。

 一九三四年、産米過剰がもたらす米価下落対策として、朝鮮の第二次産米増殖計画は中止となった。しかしながら、このような事態に対して、増産体質が刻まれた新品種では対応が難しい。〈陸羽一三二号〉も〈銀坊主〉もその作付面積を加速度的に拡大し、米の生産量は上昇を止めなかった(図15)。テクノロジーの発展には、ブレーキがかかりづらい。テクノロジーには受け手の熱狂が必ずといってよいほどつきまとうこともその理由のひとつである。目的のためにテクノロジーを生かすのではなく、テクノロジーのために目的を変えるテクノロジー社会到来の萌芽がここに垣間見えるのである。p.85

 ある種、自滅だよな。

 帝国日本の植民地である台湾と朝鮮において、日本内地人の育成した水稲の「優良品種」の果たした役割は大きい。それは、植民地における米の生産基盤を安定させたことと、高品質で同質の米を日本市場に大量に供給したことという二点にとりあえずは絞られるだろう。つまり、商品としての米の質と量を同時に改善することができたのである。ただ、こうした傾向は必ずしも植民地によって歓迎されるものではなかった。一九三〇年代には植民地米の流入が内地米の米価下落を惹起させるから増産をストップせよと圧力をかけられたり、一九四〇年代になるとまた増産の要請に迫られたり、宗主国によって植民地が振り回されることを余儀なくされた。いずれにしても、「優良品種」への品種改良が、宗主国と植民地との米を通じた結びつきを強め、宗主国の都合に植民地が影響されやすくなるのに貢献したことは否定できない。p.91

 ある意味では、日本市場向けの品種を受け入れることによって、植民地が「周縁」に固定化されたってことだよな。原料供給地となった。

 これらの一連の技術革新は、一九六八年三月八日の国際開発協会のスピーチで、アメリカの国際開発局の事務局長ウィリアム・S・ゴールドによって「緑の革命」と名づけられた。彼はこう述べている。「この革命は、ソヴィエトのような暴力的な赤の革命ではなく、イランのシャーのような白の革命でもない。わたしはこれを緑の革命と呼ぼう」。つまり、緑の革命は、社会主義イスラームという資本主義国とは異質な原理をもつ国家に対抗するための、きわめて政治的なプロジェクトだった。東畑精一は、この緑の革命の成功を前提に、磯永吉の偉業を讃えたのであった。p.144-5

 ものすごく政治的なものだったんだな。これによって、途上国の社会の中に直接分け入る手段を得たと。

 それゆえ、緑の革命の前史として磯永吉と蓬莱米、さらには、朝鮮総督府の試みや〈富国〉を批判検討することは、きわめて重要である。緑の革命は、日本の帝国経験を検討することなく、もっぱらテクノロジーの力を借りて政治の課題を克服しようとした、ということを明るみに出すからである。p.147

 緑の革命命名の経緯を考えると、金を出すほうはむしろ自覚的だったんじゃないかね。一方で、無邪気にネリカ米なんかで「アフリカに緑の革命を」なんていっている連中に関しては、疑いの目で見る必要はあるよな。

 すでに述べてきたように、エコロジカル・インペリアリズムは、第二次世界大戦後の植民地の独立以後も、遺伝資源を独占する大規模な多国籍種子企業によって担われ続けている。アジア・アフリカ各国が宗主国から独立を果たし、実質的な植民地の時代が終わったあとでさえ、「支配」が完全に消えていないということは。ポストコトニアリズム論などでこれまで繰り返し論じられてきたが、この支配のエコロジカル・インペリアリズムは、近年ますます肥大化する一方である。しかも、それは、保護貿易から自由貿易へと国際経済の基調が変化していく一九八〇年代以降も、次第に強くなってきている。この時期、育種目標が肥料耐性から除草剤耐性へ、担い手も国内外の公的機関から民間機関へと移行してきているが、本質的な支配構造は変わらない。実のところ、遺伝子を通じた食糧生産支配は、政府の市場への介入を極限にまで排除する自由主義と相性がよい。自由貿易のなかでも、遺伝子操作によって他国の農業生産構造への介入が可能だからこそ、市場万能主義を喧伝できるのである。p.183-4

しかもそれは、被支配者である生活者の願望と密接な関係を結びつつ、徐々に拡がっていく。こうした変化は、もちろん、企業の用語では市場開拓である。化学肥料に高い反応力を示す種子を播いたばかりに、大企業から化学肥料を定期的に購入せざるをえない農民たちは、「自由競争」のなかであっても、企業にとって都合の良い顧客となる。その企業の欲望を覆いかくすためにも、緑の革命は、赤の革命、つまり社会主義に対抗する「革命」を装う必要があった。ここに、植民地時代のあとの「支配」の妙味がある。p.186