森本喜久男『カンボジア絹絣の世界:アンコールの森によみがえる村』

 今年最後の読了本かな。
 内戦で荒廃し、村での伝統の存続が困難になったカンボジアで、昔からの絹絣を復興しようとしている人の活動報告。IKTT(クメール伝統織物研究所)を設立し、伝統的な織物に新たな命を吹き込み、貧しい人への生計を与えようと活動している。この人があちこち仲介し、それによって各地に残存していた技術や伝統をつなぎ合わされ、新たな血が通っていく様は、実におもしろい。また、現地の技術・知識を最大限に生かしながら活動していることが、いい結果を残す要因なのだろうな。
 長期にわたって蓄積されてきた自然の染料を利用した技術や知恵も凄い。むしろ、化学染料はまだ、染色技術の点でこなれていないとも言えるのかもしれないな。あと、「伝統の森」は、武者小路実篤の「新しき村」的な性格を感じる。
 本書で見られる、小農経済的なカンボジアの織物生産の世界は、プロト工業化や農村工業と言った視点と接続できそうだなと感じた。


 以下、メモ:

 たとえば、化学染料が普及し使われていくようになったのがいつごろのことなのか、そしてそれ以前のこと、すなわち自然染料がふつうに使われていたころのことを具体的に知りたいと思った。あるいは生糸を織り手が市場から買うのではなく、自前でカイコを飼って糸引きをしていたのか、それはいつごろまでか、といったことだ。
 そんな聞き取りを繰り返すうちに、内戦前の1960年代には、すでに村は近代的に変化していたことがわかった。が、その一方で、隣国ベトナムでは米国とベトコンの戦闘が激化しはじめていたころでもあり、間接的ながらも村の生活に社会的、経済的な変化と影響が現れていたようだ。ところが、わたしが聞き取り調査の対象としていた50代、60代の人たちにとっても、それ以前のことについては子ども時代のことであったために、具体的な内容を伴って記憶してはいないこともわかってきた。p.32

 「集団記憶喪失」、しかしで言及されているような、ある事件以前のことを忘れ去ってしまっているという側面もあるのかもな。

 当時、日本からやってきた養蚕や蚕糸の専門家の目には、タイ在来の黄色い生糸は日本の生糸に比べて生産性に劣る生糸と映っていたようだ。だから、品種改良が必要なのだと。そして、品種改良された日本のカイコの卵を持ち込もうとした。何が劣っているかといえば、まず繭が小さい。一個の繭から引ける生糸は、日本の解領主であれば1500メートル、しかし小さな在来種の黄色い繭からはわずか200-300メートルしかない。糸が短いために、効率が悪く、安定した太さの糸が引きにくい。これは機械で繭から糸を引くことを前提にして、機械に対して良いものがイコール「品質」が良いとされてきた結果である。そして、もっと機械で織りやすく、織り上がりが良い糸を吐くカイコを荒廃して作るということが繰り返されてきた。
 機械のために効率を最優先に高度に品種改良されてきた日本や中国のカイコは、結果としてシルクが本来もっていた良さを失くしていった。日本でも、四〇年ほど前までは家でお母さんが和服を洗い張りするという風景が残されていたはず。ところがいまは、シルクはドライクリーニングが当たり前になっている。その変化はなぜなのか。それは、シルクが本来もっていた丈夫でしなやかな性質が失われてしまったことに由来する。p.50-1

 このあたりしばらく繭の話。機械向けに特化した品種改良が、東南アジアには向かなかったようだ。あとは、日本の養蚕のシステムの解体とか、ペルシャ絨毯の材料にこの地域の繭が注目されているという話とか。なかなか興味深い。

 沖縄にはカンボジアと同じ絣の世界がある。染め材としての福木もそうだが、多くの織り柄にも共通した世界がある。
(中略)
 そのひとつの例がある。いまの中部ベトナム沿岸には、かつてチャンパという王国があった。その全盛のころ、チャンパ王ポー・クバーがラキウ(琉球)の王の娘を妻としていたという記述が、17世紀初めに編纂された歴史書『スジャラ・ムラユ』(マラッカ王国の栄華を記したムラユ語による叙事詩)のなかに出てくるという。また、当時、沖縄にはチャムの人たちが住む町があったともいわれている。p.173-4

 琉球と東南アジアの関係。確かに、密接な関係があったのだろうな、当時。織物などの技術や文化が往来しても不思議ではないと。