マイク・デイヴィス『スラムの惑星:都市貧困のグローバル化』

スラムの惑星―都市貧困のグローバル化―

スラムの惑星―都市貧困のグローバル化―

 書評を見て以前から気になていた本。図書館で見かけたので借りる。なんというか衝撃的な書物。先進国の工業都市が縮小しつつあることは、矢作弘『「都市縮小」の時代』(ISBN:4047102180)で描かれている。それと対になる、発展途上国でのスラムと都市貧困の氾濫という現実を明らかにした著作。

未来の都市は、先行世代の都市論者が予想したようなガラスと鉄からではなく、大部分、未加工のレンガ、藁(わら)、再利用のプラスチック、セメントの塊、廃材で建設されることになる。二一世紀の都市世界のほとんどが、天空をめざしてそびえ立つ光り輝く都市ではなく、汚物と排(はい)泄(せつ)物と腐敗によって囲まれた汚辱のなかでスクワットするのだ。p.29

ろいう第一章の締めのセリフで衝撃を受ける。アジア・アフリカ・南アメリカの様々な巨大都市の、膨大な研究を元にしているだけに、迫力がある。誰もが読むべき本。とくに経済学者は全員読んで意見を表明するべきだろう。もう、「これはひどい」タグが山ほど必要な状態。付箋を付けながら読んだが、あまりの多さに全部引用はできなかった。手打ちでやっているから、途中で根気が切れた。つか、現状でもやりすぎだな、これは…

グローバル経済とスラム

 本書で明らかにされる惨状が、ネオリベラル的な理論で支配を行うIMF世界銀行、現地の権力者の無能と怠惰が結合して発生している、巨大な人災であることがやるせない。まさに、「低開発が開発」された過程を示していると思うが。
 この点に関しては、開発主義を超えて―外部経済と内部経済―(前)で「さりとていまさら従属理論やその亜流などにしがみつく(ポメランツなどにはややその傾向ありだが)わけにもいかぬ」という一節があるが、本書で示される現状は、まさに従属理論が示す「低開発の開発」というフレームワークと親和性が高いのではないだろうか。具体的な道具だてについては、よくわからないけど。経済学というよりは、知的ヘゲモニーと国際政治の問題と言った方がいいのかもしれない。

 1974年から75年にかけて、国際通貨基金とそのお供である世界銀行は、照準を、先進工業諸国から、石油価格の高騰の衝撃下で動揺している第三世界へと移した。IMFは、融資の量を段階的に増やしつつ、顧客の国家に課している強制的な「融資条件」と「構造調整」の範囲を徐々に拡大していった。経済学者のフランシス・スチュアートが重要な研究書で強調するように「商品価格の減価と法外な債務返済を中心とするこのような制度では、調整を必要とする内発的な発展に取り組むことができない」のだが、国内政策と公共プログラムのすべてが削減の格好の餌食になってしまった。メキシコが借金返済を履行しないおそれのあった1982年8月までには、IMF世界銀行は、大規模な商業銀行と時を同じくして、レーガンサッチャーとコールの体制によって推進された国際的な資本主義革命の公然の道具になった。1985年のベーカープラン(当時の財務長官であったジェイムズ・ベーカーにならって命名されたが、実際に起草したのは副長官のリチャード・ダーマンだった)は、第三世界の15の借金大国に対し、新規の融資の斡旋と世界経済に加えつづけることとの見返りとして、国家主導の開発戦略を放棄するよう断固として要請した。さらに、プランにおいては世界銀行が、「ワシントン・コンセンサス)として知られるすばらしき新世界を形作りつつあった、構造調整プログラムの帳簿をつける長期の管財人として注目されるようになった。
 もちろんこれは、外国の銀行と債権者の要望が、都市と地方の貧民の生き延びたいという欲求にたいしてつねに優先される世界である。HIV/AIDSの危機のまっただ中にあるウガンダのような貧困国が債務免除のために支払う年間一人当たりの金額がヘルスケアの20倍に達することが「普通」とされる世界である。『スラムの挑戦』が強調しているように、SAPsは、「事実上、意図して反都市的」であり、福祉政策や財政構造、政府出資にかんしてこれまで存在してきた「都市への優遇処置」の転覆をもくろむものだった。巨大銀行のための執行吏として行動し、レーガンジョージ・H・W・ブッシュの行政官の後ろ盾をえてきたIMF世界銀行はいたるところで、貧しい諸国にたいして、平価切り下げ、私有〔民営〕化、輸入規制と食品助成の撤廃、医療と教育における原価補償の強制、公共部門の容赦なき削減といったものが入り混じる毒杯を与えてきた(財務長官のジョージ・シュルツが海外のアメリカ国際開発庁の役人にあてた悪名高い電報は次のように命じていた。「ほとんどの場合、公共部門の企業は私有〔民営〕化されるべきだ」)。どれと同時にSAPsは、農村の小自作農への助成を削除し、手厚く助成されている第一世界のアグリビジネスが支配するグローバルな商品市場の只中へと、いちかばちかで打って出るように圧力をかけることで彼らを打ちのめした。
 借金は――ウィリアム・タッブが、グローバル経済の統治について近ごろ著した歴史書のなかで指摘しているように――、第三世界国家の権力を、合衆国やそれ以外の中核的な資本主義諸国によって統制されたブレトンウッズ体制へと移譲するという前代未聞の事態のための促成栽培温室だった。タッブによれば、世界銀行の専門職員は、植民地の行政官のポストモダンな等価物であり、「植民地の役人と同様に、自分たちと同じ外見をしていて現地の経済と社会にたいする支配権を有する新手の顧問団と交代しないかぎりは決して立ち去らないらしい」。
 借金取りたちは、経済発展の仕事に従事しているのだと主張するにもかかわらず、19世紀の終わりと20世紀初頭に豊かな諸国が成長を促進するために用いたのと同じルールにのっとって行動することを貧困国にはほとんど許さない。経済学者のチャン・ハジュンが貴重な論文で指摘しているように、構造調整は善人ぶって、農業を基盤とする経済から都市型の高付加価値の製品と公益事業を基盤とする経済へと昇っていくのにOECD諸国がかつて用いた保護関税と助成という「梯子をけり落とした」。ステファン・アンドレッソンは、ジンバブエでのSAPsの残酷な結果と南アフリカがみずから課したネオリベラルな政策を考察しつつ、第三世界では、そのマクロ経済政策がワシントンからの指令に従うかぎりにおいて、「仮想現実の民主主義」以上のものは望めないのではないかと疑義を呈する。「仮想現実の民主主義は、内包的で参加型の民主主義を犠牲にするというだけでなく、社会民主主義のプロジェクトが必要としてきた公的福祉の給付が拡充されることの可能性をも犠牲にして出現する」。
 「1980年代から90年代にかけて貧困と不平等が増大したことの主要な理由の一つは国家の退場だった」と『スラムの挑戦』が論じるときには、以上と同様の主張が提起されている。公共部門の支出と所有を直にSAPが強制的に削減したということに加え、著者たちは、「補完原則」が原因となって、国家の能力がとらえがたいかたちで縮小していることを強調する。それはとりわけNGOなどの、政府の下位に位置しているが重要な国際援助機関に直接連結している組織へと、国家権力が権限移譲されることとして定義される。


あきらかに脱中心化した構造の全体は、先進世界のために役立ってきた国民的代議政府の観念にはなじまないが、グローバル・ヘゲモニーの展開にはきわめて従順である。優勢な国際的な展望(要するにワシントンの展望)は、事実上、開発のためのパラダイムになりつつあるが、それゆえに、世界全体が急速に、供与者と国際組織が支持するものが指し示すおおまかな見取り図の方向で一致するのだ。


 アフリカとラテンアメリカの都市部は、IMFホワイトハウスが画策した人為的な景気後退による大打撃をうけた――事実、多くの国では、1980年代をつうじてSAPsがおよぼした経済的な打撃は、長引く欠乏、高騰する石油価格、利子率の上昇、商品価格の下落とあいまって、大恐慌以上に過酷で長期化することになった。とりわけ第三世界の都市は、増加する移民、減少するフォーマル雇用、下落する賃金、崩壊する歳入の悪循環にはまり込んだ。これまでにみてきたように、IMF世界銀行は、貧民から公共サービス使用料金を徴収することをつうじて累減的な課税を推進してきたのであるが、その見返りとなる、軍事支出を減らすとか、富裕者の所得や不動産に課税するといった努力をしなかった。その結果、インフラと公衆衛生はいたるところで、人口増加との競争にやぶれた。セオドア・トレフォンが記すところによれば、キンシャサでは、「住民は、基本的な公共サービスのことを『思い出』として話題にしている」。
 キャロル・ラコディが概観したところによれば、アフリカにおける構造調整の貸借対照表には、資本逃避、製造業の崩壊、輸出所得の微増ないしは減少、都市の公共サービスの急激な削減、高騰する価格、実質賃金の急な減少といったものが含まれている。大陸のいたるところで人々は、ちょうど「風邪をひいている」というのと同じやりかたで、「難局をむかえている」ことを話題にするようになった。ダルエスサラームでは、1980年代をつうじて、一人当たりの公共サービス支出額が一年ごとに10パーセント下落したが、これは地方政府の事実上の消滅を意味する。ハルツームでは、自由化と構造調整は、地元の研究者によれば110万の「新しい貧民」をつくりだしたが、そのほとんどが、公共部門の仕事が縮小されたためである。重要な製造業部門と近代的な都市型公益事業をそなえた都市は熱帯のアフリカでは数少ないが、その一つであるアビジャンでは、SAP体制への従属が、脱工業化と建設業の崩壊、さらに公共輸送と医療の急速な劣化をすぐさま招いた。その結果、東アフリカ経済の「虎」と考えられていたコートジボアールでの都市貧困は1987年から1988年にかけて2倍になった。バログンによればナイジェリアでは、ラゴスとイバダンと他の都市で急速に都市化したすさまじい貧困が、1980年の28パーセントから1996年のにまで悪化した。世界銀行が報告するところでは、「今日では一人当たりのGNPがおよそ260ドルだが、これは40年前の独立のときの水準を下回るというだけでなく、1985年に達成された370ドルの水準をも下回る」。地理学者のデボラ・ボッツが示唆するように、アフリカの都市では、全般的にいって賃金がものすごく低下しているため、研究者には、貧民がはたしてどうやって生き延びているのかを描くことができない。これがいわゆる「賃金の謎」である。
 ラテンアメリカでは、ピノチェト将軍によるネオリベラルなクーデターとともに1973年にはじまった構造調整は、軍事独裁と、人民左派の抑圧に直に結びついていた。南半球におけるこの反革命のもっともめざましい結果の一つは貧困の急速な都市化であった。1970年には、農村蜂起にかんするゲバラ主義者のフォーコ理論は、地方の貧困(7500万人の貧民)が都市の貧困(4400万人)を圧倒するという大陸の現実にまだ適合していた。けれども、1980年代の終わりまでに、貧民の大多数(1億1500万人)が、農場や農村(800万人)ではなく、都市のコロニアとバリアーダとビジャ・ミセリアに住むようになった。
 ILOの調査によれば、ラテンアメリカの都市貧困は、10年間の最初の半分である1980年から1986年のあいだだけでもおどろくべきことに50パーセント上昇した。労働人口の平均収入は、ベネズエラで40パーセント、アルゼンチンで30パーセント、ブラジルとコスタリカで21パーセント下落した。メキシコでは、インフォーマルな雇用が、1980年から1987年のあいだにおよそ2倍になったが、その間に社会支出は、1980年の水準の半分にまで下落した。ペルーでは、1980年代は、SAPがひきおこした「過度の景気後退」で幕を閉じたが、これにより、都市労働力のフォーマル雇用は3年間で60パーセントから11パーセントにまで削減され、リマのスラムの扉がセンデロ=ルミノソによるオカルト的な革命へと開かれることになった。
 そうするうちに、住み込みの使用人とヨーロッパでの休暇が習いとなっている教育のある中産階級の広範な部分は、突然、自分たちが新しい貧困層のなったことに気づいた。ときには下方流動性はアフリカと同じくらいに急激であった。たちえば、貧困状態で生活している都市人口の比率は、チリとブラジルの両方で、1年だけで(1980年から1981年で)5パーセントも上昇した。だが貧民と公共部門の中産階級を粉砕した調整そのものが、私有〔民営〕化の手先、外国輸入業者、麻薬密売組織、軍の高官、そして政治的内通者には儲ける機会を与えたのだった。1980年代には、ニューリッチたちが、掘っ立て小屋の同胞たちが飢えるのを尻目にマイアミとパリへと馬鹿騒ぎすべく押しかけていくのにともなって、ラテンアメリカとアフリカで顕示的消費が幻覚的な水準にまで達した。p.232-238

 長々と引用したが、以下に「ワシントンコンセンサス」のもとで、公衆衛生などの公共サービスが破壊され、社会そのものが腐蝕したかを論じている。「公共」の概念を破壊して、私的利害が優先されてしまう社会、というか社会ですらないような代物が形成されてしまう。常々思っているのだが、ネオリベラリズムというのは、暴力や圧政の自由を推進する思想なのだと思う。だからこそ、以下のように、チリのピノチェトをはじめとする、南米の軍事政権と相性がいいし、容認できるのだろう。ティーパーティの背景にある思想に対しての、竹中平蔵のあまりにも鈍感な発言もその延長線上にあるのだろう。

 たとえば1960年代と1970年代には、サザンコーン〔アルゼンチン、ウルグアイパラグアイ、チリからなる地域〕の軍事独裁政権が、ファベーラとカンパミエントを相手に宣戦布告した。そこは抵抗の潜在的な中枢か、もしくは単に都市のブルジョワ化への障碍とみなされていたのである。こうして、1964年以後のブラジルについてふれながらスザンナ・タシュナーはこういうのである。「軍政期の始まりを特徴づけたのは、スクワッター集落を、公共の治安部隊の支援のもとに強制的に取り除くという権威主義的姿勢であった」。p164

 1973年のサンチアゴでのピノチェト独裁政権の最初の行動のひとつは――それは、民衆に支持されていた人民左派の指導者を殺戮した直後のことだ――、アジェンデ政権が容認していた掘っ立て小屋のポプラシオネ〔住民・市民村〕とカジャンパ〔貧困地帯〕からスクワッター(およそ3万5000の家族)を追い払うことで都市中枢に中産階級ヘゲモニーを確立することだった。共同体組織の研究者であるハンス・ハームスは述べている。「公に言明された目的は「都市に均質的な社会経済地域」を創出することだった。……ピノチェト軍事独裁の30年間でありとあらゆる近隣組織が解体されていくのにともない、孤立と恐怖の風潮がつくりだされた」。1984年における政治的行動主義の再生をうけて、体制は「撲滅」の第二ラウンドとして、ポプラドレに壊し屋をふたたびけしかけた。キャシー・シュナイダーが独裁に対する近隣住区の抵抗について著した歴史書で説明するところによれば、こうしたことが累積したことの結果、立ち退きさせられた者と若い家族は、友人や近親者と部屋を一緒に使わなくてはならなくなった。「アリエガド(一つの部屋に3人以上が居る状態)に住む家族の割合は1965年の25パーセントから1985年の41パーセントまで増加した」。p.165-6



 チリの軍事政権とミルトン・フリードマンの関係については、以下に言及されているが、正当化は不可能なのではないのか?
チリの亡霊は救われてはいない
チリ地震では、フリードマンの魂が空中を浮遊して守護神のように国民を護ったという。わが国には小泉/竹中がいる。大丈夫だよ、NHK、「津波が」、「津波が」と10秒置きに狂乱放送をしなくても。両先生が護ってくれる。しかも、二人は魂じゃなくて、まだ生きている存在なのだ。

貧しいものはより貧しく、不利なものはより不利に

 生存に必須のものを利用して 困窮者からさらに乾いた布を絞るように搾取するディストピアの光景。公共サービスの欠陥と制度を悪用して、富める者はより富み、貧しいものはより貧しくなる。貧民ほど搾取されている現状。その上で、富裕者には現在などをつうじて便宜が供与される歪み。これはテロに走るしかないというレベルの事態に、めまいがする。
 あと、127ページの引用部は誤訳では?「ファン・デ・シエクル」って19世紀末の「世紀末」ってことだと思うのだが。「ヨーロッパのコルカタである世紀末のナポリ」といった文意なのではないだろうか。原文を確認しないと分からないけど。

 同じくナポリのファン・デ・シエクル(fin-de-sicle)(「ヨーロッパのコルカタ」)の場合にも、フォンダチやロカンデ(locnde)が貧しく困窮すればするほど、そこからいっそう巨額の賃貸料が引き出されるという奇跡を目のあたりにした当時の人たちは驚嘆した。フランク・スノウデンはナポリの貧民についての驚くべき研究のなかで、次のようにいう。


20世紀末には家賃は五倍になり、都市住民はいっそう貧しくなった。そのうえ皮肉なことに、一メートル四方あたりの最高額の家賃は、スラムの最悪の部屋につけられた。こうした部屋は絶対的には費用がもっともかからないために、需要がもっとも高かったのである。不幸にも、スラム住宅の需要は貧困の増加にともなって拡大し、こうしてもっとも支払い能力がない人に影響する家賃の高騰はさらに進行していった。


 同じく腹立たしい逆説的な利潤が、いまだに都市の貧困から引き出されている。第三世界の農村の土地所有エリートは、数世代にわたって都市のスラム地主へと変化してきた。「不在地主制は実は非常に都市的な現象である」とハンス・ディーター・エバースとリュディガー・コルフはいう。ラテンアメリカにおいて住宅所有や合法的なスクワッティングの裾野が比較的広いのは、多くのアフリカやアジアの都市において土地所有がとてつもなく集中しているのとは対照的である。二人のドイツ人研究者が革新的な比較調査のなかであきらかにしたように、ドイツの都市では上位5パーセントの地主が土地の17パーセントを所有しているのにたいして、東南アジアの16都市では平均53パーセントにも上る。エアハード・バーナーによれば、マニラのほぼ半分は、じつに一握りの家族の所有物なのである。p.127-8

 公衆衛生の危機に対する解決策は――少なくともシカゴやボストンで快適なアームチェアに座っている経済学者が考えたように――、都市での排便をグローバルなビジネスにしてきた。実際、アメリカの政府がスポンサーになったネオリベラリズムの偉業の一つは、公衆便所を対外債務を支払うための現金自動支払機に変えたことである――有料トイレは第三世界のスラム中で成長産業なのである。ガーナでは、公衆便所の使用料が1981年に軍事政権によって導入された。1990年代後半にトイレは私有〔民営〕化され、現在では収益性の高い「金鉱」であるといわれている。たとえばクマシでは、ガーナ立法議会のメンバーが有利な契約を獲得しており、一家族の一日一回の民間トイレ使用料は、基本給の約10パーセントにもなる。同じくマザレのようなケニアのスラムでも、私有〔民営〕化されたトイレ一回の使用ごとに6セント(US)かかる。これは大半の貧民には高すぎるため、彼らは屋外で排便し、水や食料に使うだろう。ソウェトやカムウォキャといったカンパラのスラムも同じで、公衆便所は一回の使用ごとに、おそろしいことに100シリングかかる。p.211

清潔な水は世界中でもっとも安く、唯一最重要の薬だが、水の公的供給は無料のトイレと同様、強力な民間の利害と競合することが多いのだ。
 貧しい都市においては、水の販売は利益のあがる産業である。ナイロビは例のごとく顕著な例で、政治的なコネをもつ起業家が、都市水道水(蛇口を買える富裕な家族にとっては非常に安い)を、スラムにおいて法外な価格で転売しているのだ。市長であるジョー・アケッチが最近不満を述べたように、「ある調査によれば、キベラスラムの人は平均的なアメリカ市民と比べて、水一リットルあたり五倍も多く支払っている。ナイロビの富裕層が自分たちの利益になるように、富を貧民へのサービス手段にしているのは、まことに遺憾である」。商人から法外な価格の水を買うことができなかったり、そうしたくないナイロビの住人は、必死の手段に訴える。二人の地元の研究者によれば、たとえば「下水道水を使用したり、入浴や洗濯をさぼったり、掘り抜き井戸の水や雨水を使ったり、破損したパイプから汲みだした水を使っている」。p.214-5


サイバーパンクな現実

 ゲーテッドコミュニティとそれを結ぶ高速道路ネットワークによって、上層住民と下層の住民が完全に隔離されてしまう状況と、それの暴力性。まともな法治さえ機能していない。
 本書でも一番衝撃をうけた部分の一つ。自分ら未来に生きてんなあとしか言えない。もう完璧なサイバーパンクの世界が、発展途上国で再現されている。まあ、サイバーパンクも80年代のアメリカの世界を下敷きにしているのだろうが。それがどぎつく拡大して見せられる。私のサイバーパンクのイメージって「メタルヘッド」や「シャドウラン」などのテーブルトークRPGのリプレイをつうじてが多い。なんか、「シャドウラン」なんか、魔法要素を除けば完璧そのままの世界だ。
 自己完結的な閉鎖都市のネットワークによって、もはや「異物」を意識せずに生活できる空間が出現しつつある。これは恐ろしい事態だなと思う。自分たちがどういう社会に生きているかから完全に目をそらして、自分たちだけ物質的・文化的な豊かさを享受する。精神的に腐蝕しそうだ。
 ただ、これでも完全に自分たちを安全圏に置けるかどうかは疑問ではある。警備員はどこからリクルートしているかとか、食料やエネルギーなどは必然的に外から入手する必要がある。その点で外部との関わりを断つことはできないわけで。インフラ標的のテロとか地震などの災害には弱そう。

地球外基地
 第二帝政のパリとは対照的に、現代の大規模開発はたいてい、郊外にむけすでに荷造りをすませた恩知らずの上流階級のために中心部を改良している。たとえ貧民が都市中枢からの立ち退きにはげしく抵抗しても、金持ちはいつも、なじみの近隣住区を捨てて、周辺部にある幻想のテーマパークと化した壁つきの分譲地に取り替える。たしかにかつての黄金海岸は残存しているのであるが――カイロのザマレク、アビジャンリビエララゴスのビクトリア島など――、1990年代以来の新手のグローバルな動向は、第三世界都市の周辺部における排他的で閉じた郊外の爆発的な成長であった。中国においてすら(もしくはとりわけ中国では)、ゲーテッド・コミュニティが、「近年の都市計画とデザインにおけるもっとも重要な発展」であると称されている。
 これらの「地球外基地」――『ブレードランナー』の用語を使うなら――は、しばしば南カリフォルニアのレプリカとして創出される。つまるところ、「ビバリーヒルズ」が存在するのは90210番地だけではないのだ。カイロの郊外には、それに加えて、ユートピアとかドリームランドといった富裕なプライベート都市〔ビバリーヒルズ、ユートピア、ドリームランドはすべて、カイロ郊外の富裕層むけ開発地域の名〕があって、「居住者は、貧困の光景や厳しさ、地域全体に浸透しているようにみえる暴力や政治的イスラムから離れていることができる」のである。おなじく北京の北はずれには「オレンジ郡」がある。ニューポート・ビーチの建築家がデザインしマーサ・スチュワートが装飾をてがけた、何百万ドルものカリフォルニア型住宅からなるスプロールするゲートつき私有地である(郊外の開発業者がアメリカ人記者に説明したように、「合衆国ではオレンジ郡は一つの場所だと考えられているかもしれないが、中国では、オレンジ郡はジョルジオ・アルマーニのようなブランド名だと思われている」)。ロングビーチ――『ニューヨーク・タイムズ』紙はこれを「中国のエセLAの中心地」と呼ぶ――も北京北部の六車線からなる新しい大規模高速道路をまたぐところに存在している。他方、香港の厳重に防護された飛び地はパームスプリングスである。富裕な住人はそこで、「テニスをプレイし、テーマパークを散策できる。ディズニーの漫画から抜け出してきた登場人物を紛い物のギリシャ円柱と新古典派の建築物がとりまいているテーマパークである」。都市理論化のローラ・ルッジェリは、大きな一棟二軒の住人が享受する、広範に輸入されているカリフォルニア型の生活様式を、屋根裏の鶏舎のような小屋で寝るフィリピン人メイドの生活状況と比較している。
 もちろんバンガロールは、スターバックスシネコンをそなえちゃパロアルトとサニーベールのライフスタイルを南の郊外地に再現したことで有名である。都市計画家のソロモン・ベンジャミンによれば、豊かな国外居住者(公式上は「非居住インド人」)は、カリフォルニアで生活しているのと同じように、「自家用プール、ヘルスクラブ、壁をめぐらせたプライベート・セキュリティ、24時間体制の予備電力供給や出入り限定のクラブ施設をそなえた、閉鎖的な一群の「農家風邸宅」やマンション街区で生活しているのである」。ジャカルタ西部のタンゲラン地区にあるリッポ・カラワチにはアメリカ風の名前はないが、それをのぞけばやはり西海岸の郊外のコピーであり、病院やショッピングモール、映画館、スポーツクラブとゴルフクラブ、レストラン、大学をそなえ、ほぼ自己完結した基盤設備を誇示している。それはまた、地元では「完全防護ゾーン」として知られる、ゲートで囲った地域を含み込んでいる。
 セキュリティと社会的隔離の追求は強迫的で普遍的だ。マニラの中心地区でも郊外地区でもともに、豊かな住宅所有者組合が公共街路を封鎖してスラム取り壊し運動に邁進している。エアハート・バーナーは排他的なロヨラハイツ地区をこう記述している。


鉄製の門と路上障害物と検問所からなる精巧なシステムは、地域の境界を画定し、すくなくとも夜間には、都市の残りの部分からそこを切り離す。生活、身体、財産への脅威は、裕福な住人にとっての圧倒的に共有された懸念事項である。家屋は、ガラスの破片に覆われている高い壁、有刺鉄線、すべての窓にそなわっている重い鉄棒に囲い込まれることで、仮想現実的な要塞地へと変化する。


 ラゴスにおける要塞化した生活様式についてツンデ・アグボラが記述しているように、この「恐怖の建築」は、第三世界と第一世界の一部では普通のことだが、社会経済上の不平等がはなはだしい大きな都市社会――南アフリカ、ブラジル、ベネズエラ、そして合衆国――では包括的で極端な規模に到達している。ヨハネスブルクでは、ネルソン・マンデラが選出される以前ですら、ダウンタウンの巨大企業と裕福な白人の住人は、都市の中枢を逃れ、アメリカの「外縁都市(エッジシティ)」に類似しているこうセキュリティ街に様変わりした北部の郊外(サントン、ランドブルグ、ローズバンク)へとむかった。人類学者のアンドレ・セグレディは、偏在するゲートと一群の家屋と封鎖された公共街路をそなえたスプロールする郊外地であるラーゲールで、セキュリティが不条理の文化になったことを発見している。


周囲にめぐらされた高い壁はたいてい鉄製の釘と有刺鉄線で覆われているが、近ごろは緊急警報装置と連結されている電流鉄線が登場した。持ち運び可能な「非常ボタン」装置と連動している家屋の警報装置は、「武装対応」のセキュリティ会社と電子的に結合している。このように潜在している暴力の超現実的な本性をはっきり理解したのは、中産階級の近隣住区が多い北部の郊外地の一つであるウェストデンを同僚と歩いたある日のことだった。地元のセキュリティ会社からきた小型ワゴンが道端に停車していたのだが、サイドパネルに大きな文字で、「小火器と爆破物」で対処すると豪語していた。爆破物だって?


 だがケープタウンのハイソな郊外地帯であるサマーセットウェストでは、アパルトヘイト以後に要塞化された家屋が、精巧なセキュリティ機器をそなえていない比較的無邪気な家にとってかわられている。このような穏やかな住居の秘訣は、分譲地全体を、つまりは地元でいうところの「セキュリティ村」を囲い込む最新式の電気フェンスにある。そもそもライオンを家畜から遠ざけておくために開発された一万ボルトのフェンスは、侵入者に、実際に殺さなくても不具にできる大きな振動性の衝撃をくらわせるのだ。こういった住居用のセキュリティ技術への需要が世界中で高まるのにともない、南アフリカの電気フェンス会社は、郊外のセキュリティの輸出先となる市場を開拓したと願うのである。
 ブラジルでもっとも有名な壁つきのアメリカナイズされた外縁都市は、大サンパウロの北西部にあるアルファヴィルだ。ゴダールディストピア的な1965年の映画における暗黒の新世界にちなんで(倒錯的に)命名されたアルファヴィルは、巨大オフィス街と豪奢なモールと壁つき分譲地――すべてが800人以上の民間警備員によって護衛されている――をそなえた完全なプライベート都市である。テレッサ・カルデイラは、ブラジルの都市空間の軍事化にかんする正当にも賞賛された研究書である『壁の都市』(2000年)で論じている。「セキュリティは、住宅広告における主要な要素の一つであり、それにかかわる全員にとって強迫観念になっている」。実際のところセキュリティは、犯罪や侵入する放浪者に対する自警団的正義を意味するが、一方でアルファヴィルの豪奢な若者には人殺しが容認されているのだ。カルデイラが引き合いにだす住人はこう断言する。「法律は死ぬべきやつらのために存在するのであって、アルファヴィルの住人に適用されることは絶対にない」。
 ヨハネスブルクサンパウロの外縁都市は(バンガロールジャカルタの外縁都市も同様に)自己充足的な「地球外基地」である。というのも大規模な雇用地盤だけでなく、伝統的な都市中核にある小売店文化施設のほとんどを組み込んでいるからだ。より純粋に居住向けである飛び地では、高速道路の建設は――北アメリカと同様に――富裕者が郊外にでていくための必須条件だった。ラテンアメリカ研究者のデニス・ロジャースがマナグアのエリートの事例に即して論じるところによれば、「こうした私的に守られた諸空間の結合が、その諸空間を存立可能な「システム」として構成するのであり、さらに、こうした「要塞化されたネットワーク」の出現を可能にしたもっとも決定的な要素が、この五年のあいだにマナグアで展開した、よく整備され、証明され、高速化された道路の戦略的な配置であったといえるかもしれない」。
 さらにロジャースは、革命的な壁画を破壊し露天商やスクワッターに嫌がらせをしただけでなく、新しい道路システムを、SUVs(スポーツ用多目的自動車)の金持ちドライバーの安全に細心の注意をはらって建設した保守的な市長である(1996年には大統領になった)アルノルド・アレマンの「ヌエヴァマナグア」計画について以下のように論じている。


環状交差点の増殖は……それがカージャックの危険を減らしているという(なぜなら車は止まる必要がないからだ)事実と関連づけられるだろうが、その一方で迂回路の主要目的は、マナグアの犯罪率が高いことで有名な地域を回避して運転できるようにすることだったと思われる。道路の主要な役割は、都市エリートの生活とかかわりのある地域をつなげていくことだったが、それはまた、都市エリート〔親サンディニスタと読め〕とはあきらかに無関係である都市地域の道路を完全に無視するということでもあった。


 同じように、ブエノスアイレスで民間で建造された幹線道路のおかげで、いまや金持ちは、遠く離れた郊外にある「田園」(カントリークラブの家)で生活を満喫し、中心部にあるオフィスへと通勤することができる(グランブエノスアイレスにもやはりノルデルタと呼ばれる野心的な外縁都市、つまりはメガエンプレディミエントが存在するが、その財政的存続可能性は未知数である)。おなじくラゴスでは、アジャーの豊かな郊外に住む管理職と政府高官のための高速道路を建設するために、人口が密集しているスラム中から広大な回廊が一掃された。このようなネットワークに事例は無数であるが、ロジャースは次のように強調する。「大都市を都市エリートの使用のためにのみ切り刻んでいくことは……、要塞化した飛び地よりも広範な規模で都市の公共空間を侵食するということだ」。
 ここで問題になっているのは、伝統的な社会隔離と都市の断片化をも超越して金持ちと貧民の生活の交わりが激減していく、という事態をともなう大都市空間の根本的再組織化であり、そのことを理解するのは重要なポイントである。最近、ブラジル人の著述家たちは、「中世都市への回帰」について語っていたが、しかしながら中産階級が公共空間から――さらには、貧民と共有している市民生活のいかなる形跡からも――離脱することの含意はさらに根本的である。アンソニー・ギデンズを援用しながらロジャースは核心にある過程を、エリートの活動が地元地域の文脈から「脱却すること」、つまりは貧困と社会的暴力の息苦しい発生源から身を引き離そうとする似非ユートピア的な試みとして、把握している。ローラ・ルッジェーリも同様に(香港のパームスプリングスを論じつつ)、近年、根無し草化した第三世界のエリートが、神話化された南カリフォルニアのテレビイメージをお手本にした「現実の模造生活」を追い求めていることを強調している。「成功するとは閉ざされることだ――〔いいかえると〕日常の景観から孤立することなのだ」。
 自分たちの社会的景観から離脱しているが、デジタルのエーテルの中に漂うグローバリゼーションのサイバーカリフォルニアに統合されている、要塞化され幻想的なテーマパークと化した飛び地と外縁都市――これは私たちをフィリップ・K・ディックのところへと連れ戻す。ジェレミー・シーブルックはこうつけ加える。この「金まみれの監禁状態」において第三世界の都市のブルジョワジーは、「自国の市民であることをやめ、貨幣という超地上的な地勢に帰属し忠誠を誓う遊牧民になるのだ。彼らは富の愛国者になる。とらえどころのない黄金の不在地(nowhere)のナショナリストになるのだ」。
 その一方で、地域世界へと戻ってみると、都市貧民は絶望的なまでにスラム生態学の泥沼にはまりこんでいるのである。p.172-9


NGOの限界

 かつての批判者の中には、世界銀行のこの「参加への方向転換」を歓迎した人もいたが、本当の受益者は地域の人ではなく巨大NGOであるように思われる。リタ・アブラムソンはロンドンのパノス研究所の主要なレポートを含む最近の研究をレビューするなかで、次のように結論している。「PRSPのプロセスは『市民社会』をエンパワーするのではなく、むしろ主要な政府機関(特に金融)や多国間や二国間の開発機関、国際的NGOに配置された、多国籍の専門家の小規模で均質的な『鉄のトライアングル』の地位を揺るぎないものにした」。ノーベル賞受賞者のジョセフ・スティグリッツは、世界銀行にチーフ・エコノミストとして在職していた短い期間中に次のように述べている。主要NGOは国際的供与者というアジェンダに捕えられ、草の根団体も同じく国際NGOに依存している実情からすれば、新たな「ポスト・ワシントン・コンセンサス」は「ソフトな帝国主義」といったほうがいいかもしれない。
(中略)
NGO/「市民社会革命」の広範なインパクトは、世界銀行の研究者さえも認めているように、都市社会運動を官僚化しラディカルさを失わせたのだ。
(中略)
 アセフ・バヤットは中東の視点から、NGOについての誇張を嘆いていう。「その自立した民主的な組織の可能性は、概して過大評価されてきた。NGOの職業化は草の根行動主義という機動的な特徴を減少させがちである一方で、それは新たな形態の派閥政治を生み出している。」フレデリック・トーマスはコルカタについての記述のなかで、次のように主張する。「NGOは本来的に保守的である。それらは退職した公務員やビジネスマンをトップに据え、教育をうけた失業者の中からソーシャルワーカーを雇い、スラムにルーツをもたない主婦などをその下に配置する」。p.118-20

 世界銀行/NGOのスラム改良アプローチは地域のサクセス・ストーリーを生み出したかもしれないが、貧民の大半は置き去りにされている。ベルマほど手厳しくない人でさえそれを認めているのだ。活動家で作家でもあるアルンダティ・ロイによれば、NGOは「結局のところ、圧力鍋の安全弁のように機能している。政治的な怒りを脇に逸らし昇華させ、それが沸点に達しないよう注意を払っているのだ。」。「能力付与」や「望ましい統治」についての甘ったるい公約は、世界的な不平等と負債という核心的な問題を回避しており、究極的には都市の貧困を軽減するマクロ戦略がないことを覆い隠す言語ゲームにすぎない。p.122

 NGOによる開発援助の限界。地域の自助と発展ではなく、「専門家」の利害に資しているという批判。
 元公務員とか、その対象に関連する業界の人が多いというのは、日本のNGOでも結構あるような気がする。


 マイクロクレジットも全体状況という点では、それほど役に立っていないのではないかという指摘。

ジャカルタの貧民を四半世紀以上にわたって研究してきた社会歴史家リー・ジェリネックもやはり、有名NGOである地域のマイクロ・バンクがどのようにして「地元の女性のニーズと能力に突き動かされて小さな草の根プロジェクトとして始まり」、どのようにして低所得層の地盤にたいして「責任ももたず支援もしない」フランケンシュタインのような「大きくて複雑なトップダウン式の専門的な官僚主義」に成長したかを詳述している。p.119

 このような条件下では、マイクロクレジットや協同組合的な貸与などの新たな構想は〔収益があがらず〕足踏みしているインフォーマル企業には有用であっても、貧困の削減におけるマクロ的効果はほとんどない。世界的に有名なグラミン銀行の本拠地であるダッカにおいてすらそうなのだ。p.276


都市計画批判

 住んでいる人のニーズについてまったく気にしないという話。

 香港の空間経済を再構築するとうときに、都市計画家たちは、自宅を仕事場としてよく活用することや、中央市場や工場の近くに居場所を定める必要があるということなどを含む、都市貧民の実際上の生計戦略にほとんど注意を払わなかった。周辺部の高層住宅と、貧しいコミュニティのインフォーマル経済が食い違うことは、もちろん昔からある話である。しかし、これは都市改良家と都市の専制君主によっていたるところで何十年にもわたってくり返された原罪なのだ。実際、さかのぼること1850年代には、オースマン男爵の第二帝政による労働者向け住宅のショウケースであるパリのシテ・ナポレオン〔ルイ・ナポレオンがイギリスの社会的居住政策に影響されてパリに私財を投じてつくらせた公共住宅街〕は、画一的で「バラックのよう」な粗悪品であったために、対象とされた住民に拒否された。歴史家のアン=ルイーズ・シャピーロによれば、「住民は、慈善家と住宅金融組合が中世と同じように労働者階級を特別街区へ追放しはじめたことを非難し、それよりはむしろ、空き家のアパートに課税して、それによって賃貸価格を引き下げ、都市中心部の混合住宅により多くの賃貸居住が可能になるようにしてほしい、と、政府に要求した」。結局、オースマンの名高いプロジェクトは「わずかにブルジョアの貸借人を住まわせただけだった」。
 シテ・ナポレオンの子孫は現代の第三世界にたくさんいる。たとえばジャカルタでは、公共住宅は多くのインフォーマル労働者には不人気だが、それは、自宅で仕事をするための空間を与えてくれないからである。その結果、ほとんどの賃借人は軍人か公務員である。北京では、高層建築のおかげで居住空間の実質的な量的改善がもたらされたとはいえ、当の居住者たちはコミュニティの喪失を嘆いている。調査において住人たちが告げるのは、高齢者の孤立と孤独の増大だけでなく、社会的訪問、近隣者とのやりとり、子どもの遊びの頻度などの劇的な減少である。おなじようにバンコクでも、二人のヨーロッパ人研究者によれば、貧民は新しい高層ビルよりも昔のスラムに積極的に住もうとするのである。


スラムの立ち退きを計画している当局は、人々のための替わりの住まいは安価な高層アパートであると考えている。スラムの人々は、立ち退かされてこういったアパートで生活することで、再生産の手段と必要最小限度の生産のための可能性が失われることを知っている。さらに仕事へのアクセスは、これらのアパートの立地のせいでさらに困難である。こういった単純な理由のために、スラム居住者はスラムに滞在することを好み、立ち退きに対して闘いはじめる。スラム居住者にとってスラムは、悪化しつつある条件下にあってなおも生産することが可能な場所なのだ。ところが都市計画家にとってそこは、都市における癌でしかない。


 こうして、公営住宅や国家補助の住宅の中産階級による「横領」――住宅の専門家の呼び方にならっていうなら――は、ほとんど普遍的な現象になってしまった。たとえば、1980年代初頭のアルジェリアは、住宅協同組合による開発のためという名目で、市街地特別区域を小区画に分割しはじめた。だが、建築家のジャファール・レスベットのみるところでは、理論上はエレガントである国家の援助と地域のイニシアチヴのあいだの均衡であるが、それによって住宅へのアクセスが民主化されることはなかった。「建設用地は、体制によってその優越的地位を特権的に与えられた者が、自分自身の住宅を確保するためにのみ利用された。さらにかれらは、このような国家規模での争点を個人の問題にすり替えることで、住宅危機の劇的で政治的なトーンを抑制するのに寄与したのである」。その結果、公務員などの人々は助成された戸建住宅と大邸宅をえたのだが、本当の貧民はビドンヴィーユにある非合法の掘っ立て小屋に結局は落ちついたのだった。アルジェリアのような革命的飛躍を欠いていたとはいえ、チュニジアも、大量の国家助成住宅を造成したが、これの75パーセントは貧民の手には届かず、そのかわりに彼らは、エタドゥアマン、メラシーヌジェベルラマールといったチュニスのスプロールするスラムに群がったのだ。p.99-101

 都市の隔離は凍結された現状維持の状態ではなく、終わりなき社会戦争である。そこでは国家が、土地所有者や外国人投資家やエリート家主や中産階級の通勤者に都合よく空間境界を引きなおすべく、「進歩」や「美化」や、さらには「貧民のための社会正義」の名目を掲げてたびたび介入してくる。オースマン男爵の気ちがいじみた支配下にあった1860年代のパリのように、都市再開発は依然として、私的利潤と社会統制を同時に最大化すべく奮闘している。近ごろの人口除去の規模は膨大である。何年ごとに、何十万人、ときには何百万人もの貧民――合法的な借家人であれ、スクワッターであれ――が、第三世界の居住区から強制的に立ち退きさせられている。その結果、都市貧民は、(都市計画家のツンデ・アグボラがみずからの生地であるラゴスにおける窮状の特徴を述べているところにしたがうならば)「果てしない引っ越しの状態におかれた」放浪者となる。そして、オースマンが旧街区から追い出したサンキュロットと同じように――ブランキがオースマンに投げつけたかの名高い不満の通りに――「独裁の手によって大きな規模で騒がしく石を動かす……この仰々しい殺人的な栄華に飽き飽きした」。さらに貧民は、自分たちを「人間のクズ」(これは1970年代に中心部のビドンヴィーユから9万人を追い出したダカールの権勢者たちの言い草だ)と規定する、いにしえよりの近代化の語法に激昂している。p.151-2


以下、メモ

 開発途上の世界において爆発する都市には、また、桁外れの新しい都市ネットワーク、回廊地帯(コリダー)と階層性が張りめぐらされている。アメリカ圏ではすでに地理学者たちは、ブラジルの二つの大都市圏のあいだにある500キロメーターの輸送軸上の中規模の諸都市と、カンピナスを中心とする重要な工業地帯を含む、リオ=サンパウロ拡大都市圏(PSPER:Rio/Sao Paulo Extended Metropolitan Region)として知られる巨大怪物について語っている。現在の人口数3700万人をかぞれるこの未発達の巨大都市圏は東京・横浜よりもとっくに大きいのだ。同様に、はやくもトルーカを呑みこんでしまったメキシコシティの巨大アメーバは、偽足を延ばし、いずれはクエルナバ、ブエブラ、クラウトラ、バチューカ、ケタレロといった都市を含む中央メキシコの大半を、21世紀半ばには人口およそ5000万人――国家全体のほぼ40パーセント――にのぼる単一の巨大都市圏へと組み入れられることになるだろう。p.14

 中南米ギニア湾岸、東シナ海沿岸地域に巨大な都市の回廊ができつつあるという話。まあ、日本でいえば、関東から関西あたりまでにたような複合体ができているようにも思うが。

 これはまたマレーシアにもあてはまる。ジャーナリストのジェレミー・シーブルックは、ペナンの猟師(ママ)の末路についてこう記述している。「猟師たちは移住しなかったのに都市化の波に巻き込まれた。生まれたところにとどまったのだが、そのせいで、生活がひっくり返ったのだ」。漁師たちの家は新設の幹線道路のせいで海から切り離され、漁場は都市からの廃棄物によって汚染され、近所の丘陵地にあった森林はアパートの敷地の整備のために伐採されたが、その後には、日本人が所有する近隣の搾取工場に自分の娘を送り出す以外に選択の余地がなかった。「これは破壊であった」。シーブルックは強調する。「それもただ、海と共棲しながら生きてきた人々の生活の破壊というだけでなく、漁を営む人々の心理と精神の破壊でもあった。p.18

 文化の破壊。

 けれども開発途上の世界のほとんどで、都市成長は、中国、韓国、台湾における強力な製造品輸出という原動力や、中国における膨大な外資の流れ(いまでは開発途上世界全体におけるすべての外国投資のおよそ半分にひとしい)を欠いている。1980年代のなかば以来、南側諸国の巨大な工業都市――ボンベイヨハネスブルクブエノスアイレス、ベロホリゾンテ、サンパウロ――はすべて、大規模な工場閉鎖と脱工業化の進行にみまわれた。それ以外の場所では都市化は工業化からだけでなく、開発そのものからすらいっそう徹底的に切り離されており、しかもサハラ砂漠以南のアフリカでは、都市化の必須条件と考えられていた農業生産力の向上から切り離されている。その結果、都市経済の規模と人口規模の相関性はたいてい驚くほど希薄である。図表5は、最大級の大都市圏で人口とGDPの順位が不均衡であることを示している。p.22-3

 大半の大都市圏では、経済の好転なしに、都市の巨大化が進んでいるという状況。

 広大な現地人の都市集落を嫌悪したにもかかわらず、イギリス人はほぼ間違いなく、いかなるときにも最大のスラム建造者だった。アフリカでの政策は、地元の労働力を、隔離され制限された都市の外辺部に建つ貧弱な掘っ立て小屋に無理やり住まわせるというものだった。インド、ビルマ、セイロンでは、公衆衛生を改善したり、あるいは現地人の近隣住区に最小限度のインフラを提供したりすることさえもイギリス人が拒んだために、20世紀初頭の伝染病(ペスト、コレラ、インフルエンザ)による大量死を招き、さらには都市の不潔さという、独立後の民族エリートが引き継ぐことになる問題をおびただしく引き起こした。p.84

 ヨーロッパ人のやり口。結局のところ、帝国主義以来、第三世界は搾取され続けている。

 住宅供給にはたす中央政府の役割の収縮は、IMF世界銀行が定めるようなネオリベラル経済の正説によって拍車がかけられることになった。1970年代後半と1980年代に債務国に押しつけられた構造調整プログラム(SAPs)は、政府による諸プログラムの縮小や住宅市場の私有〔民営〕化もしばしば要求した。p.97-98


 第三世界の都市エリートと中産階級はさらに、地方自治体による課税をきわめて巧妙に免れている。「ほとんどの開発途上国では」とILOのA・オベライはいう、「不動産課税からあがる収益の潜在力は十分に活用されていない。現存のシステムは、お粗末な評価機関、所得税控除による税基盤の実質的な目減り、お粗末な税徴収の仕事ぶりに悩んでいる」。オベライは控えめにすぎる。アフリカ、南アジア、そしてラテンアメリカのほとんどの都市の富裕者に、地方政府は、猛烈というだけではすまず、犯罪的とすらいえるくらいに過小に課税しているのだから。そのうえ、財政的に苦しい都市は逆累進的な消費税や受益者料金に頼ることになりがちであるため――たとえばメキシコでは、これらが歳入の40パーセントを生み出している――、税負担はさらにいっそう一方向的に金持ちから貧民へと転嫁されてきた。ニック・デーヴィスは、第三世界の10都市を選んで財政制度にかんする類例のない比較分析をおこなっているが、そこで発見されたのが一貫して逆累進的であるパターンである。そこには、富裕者から資産を査定し資産税を徴収している真剣な努力のあとがほとんどみられない。
 責任の一端は、IMFに負わせるべきだ。第三世界の金融の番犬として、IMFはあらゆるところで公共サービスへの逆累進的な受益者負担や課徴金を提唱しているが、それに見合っただけの、富や顕示的消費や不動産に課税しようという努力をまったくしていない。おなじく世界銀行も、第三世界都市で「良きガバナンス」のための改革運動をおこなっているが、累進課税をめったに後押ししないため「良きガバナンス」の可能性そのものを台無しにしている。p.104-5

 課税の不公正の問題。それは国際的な機関からも後押しをうけている。

 都市のラティフンディアへと向かうこの趨勢はまた、生産的経済の危機と衰退にも根ざしている。おそらく都市の都市価格は、かつては経済成長と産業投資と一致していた。だが1970年代後半以降、都市の不動産が国民貯蓄にとっての資本の罠になるにつれ、この関係は解消された。1970年代後半から1980年代の連鎖的な債務危機、急激なインフレ、IMFのショック療法によって、国内産業や公的雇用に生産的投資をする誘因の多くが失われた。構造調整プログラムは国内貯蓄を、産業や福祉に替わって土地投機に向けた。アクラの政治経済学者クウォドォ・コナドゥ・アジェマンは次のようにいう。「高インフレ率と大幅な通貨切下げは貯蓄を思いとどまらせ、未開発もしくは部分開発された土地への投機が、もっとも安全で収益性が高く、外貨での売却もできる資産保有の方法になった」。p.128-9

 大カイロ都市圏の面積が五年間で倍増し、新しい郊外が西方の砂漠に広がっていっても、住宅危機は深刻なままである。新築の住宅は貧民には高すぎ、その多くは所有者がサウジアラビアペルシャ湾に仕事ででかけているため空き家になっている。「百万戸以上のマンションが空き家のままである。……本質的に住宅不足ということではない。事実、カイロは空き家の建物で半分埋め尽くされている」とジェフリー・ニードシックはいう。
 「世界でもっとも貧しい巨大都市であるダッカは、市街地への集約的な投機にみまわれてきた。国外在住者の送金の約三分の一は土地購入に使われた。土地価格は他の商品やサービスに比べて40から60パーセント早いスピードで上昇し、いまや完全に収入レベルを超えている」とエレン・ブレナンは説明する。南アジアの別の例はコロンボである。そこでは1970年代後半から1980年代にかけて不動産価格が何千倍にも跳ね上がり、高齢で貧しい都市住民の多くは都市周辺部に押し出された。
 過密で手入れの悪いスラム住宅は、他のタイプの不動産に投資するより、しばしば1フィート四方あたりの収益率が高い。ブラジルでは、中産階級の多くが家主として貧民に家を貸しているのだが、数戸の住宅(コルティッソ)を所有することで多くの専門職や中間管理職は、コバカバーナ的ライフスタイル(リオデジャネイロの南部にある、金持ちがたくさん集まる有名なビーチでのライフスタイル)への足がかりをえるのだ。UN-HABITATの研究者たちも驚いたのだが、「サンパウロのコルティッソ一メートル四方あたりの賃貸価格は、公式の市場価格より約90パーセントも高い」。キトでは豊かな土地所有者が、丘陵地帯や険しい峡谷(2850メートルという都市の限界、すなわち公共システムで水を汲み上げられる最高高度より高い)にある数区画を、仲介者(ウルバニサドール・ピラータ)〔もぐりの不動産業者〕を通して土地に飢えた移住民に安く売り払っており、住民はのちに都市サービスを求めて闘わなければならない。ボゴダの「海賊版住宅市場」を論じた土地経済学者のウンベルト・モリーナの主張では、投資家は都市周辺を「独占価格」で開発して莫大な利益をあげている。p.130-131

 住宅権を保証されない人がたくさん居る一方で、権力を悪用できる人は土地投機で儲け、大量に空き家がある無駄。

 人口統計学的にはダイナミックだが職が不足する大都市において、住宅や次世代の市街地の商品化は、家賃上昇と過密化という悪循環への論理的に導き出された処方箋であり、それは後期ヴィクトリア朝のロンドンやナポリでも、かつていわれてきたことである。要するに、世界銀行第三世界の都市の住宅危機にたいする解決策として現在賞賛している市場の力こそが、当該の危機を昔からずっとひきおこしてきたのだ。だが市場は単独で動くことはほとんどない。次章では、南側諸国の都市における空間をめぐる階級闘争と、土地の商品化ではたす国家暴力の役割について考えよう。エアハード・バーナーが苦々しげだが正確に述べているように、「これまでのところ、国家は住宅建設よりもその破壊においてはるかに実効的だったのである」。p.140

 土地の商品化の問題点と国家の暴力。

 都市空間をめぐる階級構想がもっとも熾烈におこるのはもちろん、都心部と主要な都市中核においてである。エアハート・バーナーは、その模範的な研究でマニラの事例を論じているが、そこでは、グローバル化した資産価値が、主要な所得の発生源の近辺にいなくてはならないという貧民の死活の必要と衝突している。
(中略)
 露天商などのインフォーマル企業家も、マニラの中央広場や街角、公園に密集している。バーナーは、つまるところは合理的経済主体のように行動しているだけの貧民のこういった侵攻を押し戻すことに、市場メカニズムや民間セキュリティ部門さえもが失敗していることを論じている――最終的に土地所有者は、労働者階級の借家人と安アパート居住者からなる過剰人口の立ち退きを促進していくためだけでなく、スクワッターと露天商を遠くへと追い払うためにも、国家の抑圧に頼ることになる。p.152-3

 合理的経済主体としての貧民。

 第三世界の都市では、貧しい人々は、都市の清掃のための撲滅運動へと当局をかり立てる注目を集める国際イベント――会議、首脳の来賓、スポーツイベント、ミスコン、国際的フェスティヴァル――を怖れている。スラム居住者は自分たちが、政府が世界に見て欲しくない「ゴミ」や「障害物」だということを知っているのだ。たとえば1960年のナイジェリア独立式典で新政府がはじめにおこなったことの一つは空港からの道をフェンスで囲うことであったが、これにより、エリザベス女王の代理であったアレクサンドリア皇女は、ラゴスのスラムを見なくてすんだ。政府は、最近では、スラムを破壊して居住者を都市から追い払うことで景観を改善しようといっそう躍起になっている。p.159

 日本でもやっているよな。こんなこと。イベントのたびにホームレスを追い払うのは、東京も大阪も一緒。

 近代オリンピックには、暗欝きわまりないがあまり知られていない歴史がある。たとえば、ナチスは1936年のオリンピックにそなえ、海外からの来訪者の目に触れそうなベルリン地区からホームレスとスラム居住者を情け容赦なしに追放した。そのあとのオリンピック――メキシコシティアテネバルセロナを含む――では都市再生と立ち退きが付随して起こったが、1988年のソウル大会は、貧しい家屋所有者とスクワッターと賃貸人にたいする当局の手入れの規模の点でまったく先例のないものだった。ソウルとインチョンでは72万人もの人々が再居住させられたのだが、それをうけてカソリック系のNGOは、韓国が「力ずくの立ち退きがきわめて酷く非人間的な国」としては南アフリカに匹敵する国だと主張することになった。p.161-2

 オリンピックの暗黒面。

 1970年代以来、あらゆる国の政府にとって、スラムクリアランスを犯罪と戦うためには必須の手段であるとして正当化するのは当たり前のことになった。そのうえスラムは、国家の監視に対し不可視で、事実上「一望監視(パノプティコン)の外にある」というただそれだけのことを理由にしばしば脅威と見られるのである。かくして、1986年にザンビアケネス・カウンダ大統領がルサカ全域における破壊と立ち退きを命じたとき、その理由についてこう主張することになる。「犯罪者の大多数が無法状態の街を逃げ場としているのだが、それは住民たちの生活形態ゆえに、適切な監視装置の体系が備わっていないからだ」。p168

 スラムの犯罪化。

 開発後も残った都市周辺部の農業はさらに、人間や動物の堆肥のなかにある有毒物質によって汚染されている。アジアの都市は昔から、上空から見ると、生産性の高い市場向け野菜栽培地の明るい緑のコロナに囲まれており、それは下肥の運搬が採算の取れる範囲まで延びていた。だが現代の産業汚水は、重金属と危険な病原菌で汚染されている。農民や漁師が都市開発によって絶えず立ち退きにあっているハノイ郊外では、化学肥料の無料の代用品として、都市廃棄物や産業廃棄物が今ではごく普通に利用されている。この身体に悪影響を及ぼす慣習について質問した研究者は、「農民や漁師たちのなかに都市の金持ちに対する冷笑」があることに気づいた。「奴らは俺たちのことを気にもとめないし、〔農地への〕わずかな賠償金で俺たちをばかにするのだから、なにか仕返しをしたっていいだろう」。同じく平野のスラムが無秩序に広がるコロンボでは、「キラコトゥとして知られる独特な形の耕作が出現しており、衛生上好ましくない都市廃棄物が、可能な限りの場所でできるだけ早く野菜を育てるのに用いられている」。p.203-4

 身の毛のよだつ話。何が含まれているか分からない食べ物か。で、本当の金持ちは、先進国の生鮮食品を買うことで、さらに地域社会から遊離していくと。

 世界的な衛生危機は誇張ではない。多くの第三世界の都市問題と同様、その起源は帝国主義にある。概してヨーロッパの各帝国は、近代的な下水・上水設備を現地人居住区に設置しようとせず、代わって駐屯地や白人居住地域を伝染病から隔離するために、人種差別的なゾーニングや防疫線を用いた。こうしてアクラからハノイにいたる植民地独立後の政権は公衆衛生上の大きな欠陥を引き継いだが、それを積極的に改善しようとした政権はほとんどなかった(ラテンアメリカの都市には深刻な公衆衛生上の問題があるが、アフリカや南アジアの都市における問題の大きさとは比べものにならない)。

 下水などのトイレ関係の問題。以下、各都市の屎尿のすさまじい状況が記される。デリーの状況は衝撃的。

 スラム地域でトイレ設備が不足しているために、スラム居住者は公園などなんらかのオープンスペースを利用せざるをえず、その結果彼らと中産階級の住人との間に排便権をめぐって緊張が生じてきた」。事実アルンダティ・ロイは、1998年に「公共の場所で排便をしたために射殺された」デリーの三人のスラム居住者について述べている。p.209


 だが国連の『人間開発報告書2004年版』によると、「1990年代には、かつてないくらいに多くの国家が、開発が後ろ向きに滑り落ちていくのを経験した。46の国で人々は今日、1990年のときより貧しい。25の国では人々は今日、10年前よりも飢えている」。第三世界のいたるところで、SAPsの新しい波と、みずから課したネオリベラルなプログラムが、国家の雇用と地元の製造業と国内市場向けの農業の破壊を加速した。ラテンアメリカの大規模な工業都市――メキシコシティサンパウロベロオリゾンテブエノスアイレス――は、製造業での勤め口の莫大な喪失を被った。サンパウロでは、雇用に占める製造業の比率が1980年の40パーセントから2004年の15パーセントへと下落した。債務返済のための費用(ジャマイカのような国では1990年代の後期に国家予算の60パーセントを食いつぶしている)は社会プログラムと住宅扶助のための財源を遣い尽した。ドン・ロボサムの言い方によれば、それは都市貧民の「社会的放棄」である。
 その一方で世界銀行は、公共部門を商業界のたんなる支援者として再定義した『都市政策と経済発展:1990年代のための提言』(1991年)という文書で、地方自治体の役割が消滅することを支持した。地理学者のセシリア・ザネッタは、メキシコとアルゼンチンにおける世界銀行の都市プログラムについての評論でこのように説明している。「市場メカニズムの回復にとりわけ重きを置いているため、正しい都市政策はいまや、フォーマルなものであれインフォーマルなものであれ、都市の経済的行為主体の生産力を制限していた障壁を除去し、国民経済への彼らの貢献を最大化することを目的とする政策として定義されるようになった」。事実、「都市の生産力」のこのような物神化は、雇用と公平な分配にたいする効果にはかまうことなく、公共施設と都市の公益事業を私有〔民営〕化せよという強大な圧力に帰結した。世界銀行が関与しているかぎり、公共部門の雇用が1990代において失地回復する機会は決してありえない。p.246-7