中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』

栽培植物と農耕の起源 (岩波新書 青版 G-103)

栽培植物と農耕の起源 (岩波新書 青版 G-103)

 古典的な名著。50年前の本か。それだけに、後に書き換えられている可能性が高いので注意する必要がある。例えば、稲の栽培化に関して、本書ではインド東部で起こったと考えているようだが、遺伝子の解析からは長江流域が起源ではないかとする研究も出ている。稲に関しては、まだまだ定まった状態ではないようだが。
 植物の栽培化が起こった地域ごとに、主要な栽培植物のセットで特徴づけられるのが興味深い。東南アジアの根栽農耕文化では、バナナ・ヤムイモ・タローイモ・サトウキビのセットが基本となり、サバンナ農耕文化では雑穀・豆・果菜・油料作物といった組み合わせになる。ゲノム分析が一般化する以前の業績だが、近縁野生種、雑草、近い種類の植物の利用などを総合的に見て、起源や伝播を推測する方法は、現在でもあまり古びていないように見える。
 あとがきの「農業の歴史は栽培植物の中に書きこまれている」という考え方は傾聴に値する。


 『銃・病原菌・鉄』を読み始めて、京大系の民俗植物学の成果と比べてみる必要がありそうだなと思ったために、急遽入手。古本で持っていたような気もするが、召喚が難しいので、諦めて再刊したのを買う。ジャレド・ダイアモンドは、農耕牧畜と狩猟採集経済の差をかなり大きく考えている印象。農耕と採集ってのは、ものすごくなだらかにつながっているように思う。高度の発展した採集経済は、ごく初期の農耕と見分けがつかないんじゃないかと、改めて思った。あと、ダイアモンドの視点は、それでもやはりヨーロッパ中心主義的な視点が強いように感じる。まあ、このあたり上巻を読んだだけなので結論は避けるべきだが。
 まあ、環境との相互作用を含んだ、先史時代からの人類の歴史を書くとしたら、狭義の歴史学者よりも、フィールドでの研究経験がある生物学者の方が向いているってのは感じるな。歴史学者は文字史料を扱うエキスパートではあるけど、それだけに先史時代には無力だし。特に植物学の訓練をうけた人間の方が有利なのではないかと思う。


 以下、メモ:

 しかし東南アジアの熱帯降雨林の中から探しだされ、農作物として発展してきたものはこれらの四種類くらいのものだけではない。まだまだたくさんの栽培植物がつくりあげられた。その一つにカレーのもとになるイモがある。カレー・ライスは今では日本の日常食の一つといってもよいほど普及しているが、カレーとは一体なんだろう。カレー・ライスには肉やジャガイモ、小麦粉が入っているのはもちろんだが、あの黄色と特有の風味はあるイモの粉末からきたものだ。それは英語でトルメリック(Tuemeric)、漢語でウコン(鬱金)と呼ぶ粉末である。これはショウガ科に入るクルクーマ・ロンガ(Curcuma longa)という、バナナの草姿を一メートルくらいの小型にしたような草の、塊状のイモを乾燥して粉末にしたものである。この植物は純然たる栽培植物で、たしかな野生種はまだ分かっていないし、花が咲いても種子を結ぶことがない。とにかく古代から栽培されてきたもので、イモの粉末の用途はいろいろあった。ウコンの名は染料として知られたものだし、南洋の土人が裸体にベタベタと奇妙に色を塗りつけるのに非常に尊重された。ミクロネシアではこの用途のための粉末の輸送が島の間の航海の目的でもあったといわれる。p.42-3

 へー、ウコンってそういうものだったのか。種イモで増やしているのか。あと、「土人」って、さすがに50年前の本だな。

 東南アジアの熱帯降雨林地帯の植物生産の豊かさを示すものはほかにもたくさんある。太い材木から澱粉をとるサゴヤシもその例になる。ヤシ類やソテツ類の中には開花前になると、太い茎の中に程度はいろいろだが、澱粉を蓄積する種類がたくさんある。それを取り出したものがサゴ澱粉である。いちばん有名なものはサゴヤシ(Meteroxyron sagus)で、これに近いトゲサゴヤシとをあわせて、サゴヤシ利用生活者がマレーシアからニューギニアに分布していることは民族学の教えるところである。このサゴヤシ利用は、自然条件のよい所では主食を得るのに、最小の労働力で足る生活法であることは記憶されてよい。一年間に一週間労働すれば、その年の食糧が確保できるのはこのサゴヤシだけである。ただしこのように容易に食料を得ている原住民は、文化文明を進歩させるどころか、ひどくみじめな生活状態であるのも興味深い点である。p.45-7

 サゴヤシの生産力。一週間で一年分の食料を確保できるってのはすごいな。逆に、生産力を上げようとかそういうインセンティブはなくなるわな。

 一年生禾本科と、多年生禾本科植物とは生態学的に重大な差がある。簡単にいえば、モンスーン気候地帯では、一年生禾本は多年にわたって安定した群落をつくらないのだ。たとえば洪水のあとの露出地に、あくる年に一年生の禾本の大群落が自然にできる。その種子は原始人にとって天の恵みとなる場合を考えてみよう。ところがたいていその翌年には、その有用な草はそこにずっとすくなくなり、多年生の草が生えてくる。数年後にははじめの自然の雑穀畑だったところから、その植物がすっかり消えてしまう。一年生の草では安定した植生ができず、多年生の禾本からできているサバンナに変わってしまうのが常である。もし原始人が自然の穀粒をただ採集するだけだったら、多年生禾本にそれを求めていれば、毎年安定した収穫が期待できるのに、一年生禾本の穀粒を採集しようとすれば、非常に不安定なことになる。ところが、一たん草原を人為的に露出させるなど、すなわち耕したりすると、その後間もなく一年生禾本はよく反応して、たちまち収穫が期待できる。
 ところが、多年生の植物の群落では、その生育を人為で簡単に改良することはできない。つまり一年生禾本の群落は、不安定であるが、かえってそれだけに人為的に助けて、よい群落を作りやすいわけである。つまり農業は、一年生禾本の群落を人為的につくることからはじまったというわけである。
 それではいったい、最初の雑穀農業はどんな作業からはじまったのだろうか。これはなかなかむつかしい問題である。まず最初にこたえうることは、サバンナ地帯では草原を焼くことだけでは、かえって多年生禾本の純粋群落になってしまい、一年生の植物は減る効果しかない。アフリカで開発された二つの油料植物、アブラヤシとシアーバターの木はこの野火によく耐えるので、このような条件に適応して増加し、人間の生活を助けてきたが、一年生禾本ではそうはいかない。それでは最初の農業をげんざいアフリカ原住民がおこなっている農耕法の中に求めてみると、いくらか解答らしいものががある。
 ニゼル川の中流から、ケニヤ、タンガニーカにいたる地帯の農耕のなかには、いろいろ原始的な農耕法が見いだされる。その中には、多年生禾本の草原の中へ、雨季の前に枯れている草の葉のあいだを通して、シコクビエの種子をいきなりバラ播きする方法がある。覆土も耕作もなにもやらない。やがて発芽してくると、人がその中に坐りこんで、雑草の方を一本ずつ手で掘りとる。もちろんこんなことで完全な除草はできないが、やらないよりましだ。土を耕すことのない農業だが、播種と除草だけがある農法である。案外、雑穀農業はこんなことからはじまったのではないだろうか。p.107-8

 うーむ、あんまりやりたくない感じの方法だな…
 しかしまあ、最初は種を播くこともしなくて、一年生禾本の群落を維持するために、多年草を排除することが始まりだったのかもな。採集と農耕の区別がつきにくい状況ではあるが。

 そのちがいの要点は、サバンナ農耕文化の作物と雑草がまったく別物であって、絶対的に競争者の関係であることだ。ところがムギ類の雑草では、かならずしも作物と雑草は反対者でなく、人間の側からみて互いに補充しあう関係にある場合がかなりある。それが具体的にどのようなことであるかは後述することにする。その結果おこった両者のちがいの一つは、ムギ作の雑草の中からは、たくさんの栽培植物が開発されてきて、起源上からは二次作物と呼ばれるものを生んできたが、サバンナ農耕文化の中からは、一つの二次作物も生まれていない。
 雑穀を条播して、入念に除草する。それがサバンナ農耕文化のすすんだみちであった。それは機械をほとんど利用せず、家畜の糞の利用もあまりすすまなかった。毎年毎年同じ土地を耕し、休閑することはない。ムギ作農耕文化の初期にみられる穀草式、二圃式といったような方式も創りだされなかった。そのような状態で雑穀栽培は増産法を、人間の入念な労働力、すなわち精緻な除草の上に大きなウエイトをおいてきた。そうした結果、経営面積の増大は歴史上かなり早い時代に壁にぶつかってしまう。農業の生産性の停滞がおこり、したがって農業生産に基礎をおく高級文化も停滞せざるを得なくなる。東洋やアフリカの後進性は農業の生産性の一般的停滞の上に成立してきた。p.112

 最後の方はともかくとして。地中海式農耕文化とサバンナ農耕文化の性格の違い。このあたりの差異というのは、結構現在まで残っているように思う。日本の農業が単純な価格競争では不利ってのも、この辺に要因があるわけだし。ただ、環境的な持続性という観点からは、評価が変わってくると思うが。
 まあ、サバンナ式がアフリカのサハラ以南からインド、東南アジアまで広がるかなり大きな概念となっているが…

 アジアの場合をみると、現象はやや複雑である。しかし基本複合を分析してみると、やはりアジアでもイネは夏作の雑穀類の一つということになって、他の雑穀からイネを基本複合としてはっきり区別する理由はない。つまり“稲作文化”などという、日本からインドまでに広がる複合は存在しない。そこにあるものは、根栽文化複合の影響をうけたサバンナ農耕文化複合である。p.117

 おもしろい見方。

 原始の採集経済の人々がこの豊かな大草原へはいりこみ、野生の穂の採集と狩りをやって生活して、あちこちにキャンプをするようになる。キャンプをすると、そこでは人間は火をたいて灰をまきちらす。またキャンプ附近には、人間の生理上から、毎日必ずチッソを濃縮した排泄物をまきちらす。キャンプは大草原の中に島のようにいままでとちがった土壌条件の場所をつくりだす。その場所には、翌年はもうまわりとちがった植物が生えてくる。このようなことは、遊牧民の生活をみれば、げんざいでもあきらかなことである。私はモンゴルの草原で、五年以上も古いモンゴル人のテント跡を、草の状態から指摘できたことがあった。このように、人間が新しく作りだした環境の中へはいりこんで育つ植物はふつうの野生植物とちがっている。それは偶然にその環境に適応していた植物であることもあるが(モンゴルでは霧氷草という植物などがその例になる)、地中海東岸地方では、結果からみると、新しい人間の作った環境に、突然変異によって変異して適応をとげた植物群が生じたのである。簡単にいうと、野草から雑草へと進化したのだ。野草も雑草も同じことと考える人が多いだろうが、これは区別できる。雑草とは人間の作りだした環境に生ずるもので、人間文化の伝播とともに伝播し、地球上で雑草は常に野草より地理的分布が広いのだ。地中海東岸地方でこうして生じた一群の雑草は、その後ムギ類とともに全世界をかけめぐり、ヨーロッパはもちろんのこと、北米にも南米にも、オーストラリアにもいまではひろがっている。ただし日本、シナ、インドは、この雑草群のごく一部分しかはいりこんでいない特殊地域になっている。この問題はあとで別に述べることにする。
 さてこの雑草群の中にムギ類の野生種がはいりこむと、それはもう農業に非常に近いものになる。たとえば野生型の二粒系コムギであるトリティクム・ディコッコイデスのパレスチナ附近のものは生態からみると野生であるのに、コーカサスのものには報告によると野生的なものと雑草的な生態のものとの両方がある。トルコに見いだされる一粒系コムギの野生種はコムギ畑に雑草になったり、道端にたくさんみられるのだから、雑草型になったなったものが残っていると推定される。エンバクを調べてみると、野生と雑草と栽培種が全部うまくそろって存在しており、進化のあとがあきらかに指摘できる。つまりムギ類はこのように、野生から雑草へ、そして栽培植物へと変わってきたのだ。そして野生から雑草へと変化したときは、まだ農業がはじまる以前のことなのに、植物の品種改良ともいえる遺伝的な変化が農業開始前におこったことになる。こうして、人間が土地を耕すことを、植物の側から準備して待っていたのだ。
 そしてこの野生植物の雑草への変化は一群の一年生植物であって、それはムギ類だけがおこした変化ではない。この一群のなかまはなかなか複雑なグループで、生態的にそうとう強固な結びつきをつくりあげ、一群となってそのまま畑に生ずるようになる。人類はムギ類だけを栽培したのではない。むしろ一群の植物を栽培したのだ。だんだん文明がすすむにつれて、一群の中から有用と無用をきびしく区別するようになったのだ。ムギ作農業のはじまりを考える人はそこのところを、ちょっと頭を切りかえてみてもらわねばならない。p.146-8

 人類と植物の共進化の過程から、グラデーションを描いて農耕へと変化していく。そのところがここからも読みとれる。条件のいいところでは、採集の方が有利だったのではないか。

西アジアの農業革命
 地中海気候の地帯のムギ作農業の特色の一つに畑地灌漑農法がある。これはイネにおける水田とちがって、地中海周辺の乾燥地帯に独特なものである。このムギ栽培における畑地灌漑はいつの時代にはじまったか。その問題を考古学的資料からでなく、民族学的資料から求めてみると、思いがけない事実がある。北アメリカのバイユート族は大陸気候の半砂漠地に住み、永久冬営地に小屋を建てたが、そこを中心にして数百マイルにわたる地帯に植物性食料の採集旅行に出た。その彼らは、ときとして自分らの縄張り内の野生禾本科種子採集地に人工的に灌漑をしていた。春さきに川の中に転石や木の枝で簡単なダムを作り、そこから溝を掘って水を導いて草原に灌漑した。その導水路も、ときとして一マイルもの長さがあったという。これは農作物の栽培が開始される以前、すなわち採集経済の段階ですでに人工灌漑が開始されたことを示している。この例からみると、地中海農耕文化における人工灌漑を、いちがいに後期の発達と思いこんではならないということを示している。あるいはひょっとしたら、テロファイト・ディスクライマックスで野生のムギを採集していたころに、まず最初灌漑がおこなわれたかもしれないのだ。それにしても、もしそうであったなら、バイユート族にみたような方法だったら、大平原の中より、山よりの傾斜のある土地でなければならない。p.159-160

 採集段階で灌漑をやっていたって事実には驚くほかないな…