御厨貴『権力の館を歩く』

権力の館を歩く

権力の館を歩く

 毎日新聞に連載された記事を再構成したもの。「権力の館」として、自民党の歴代の首相経験者の旧邸や国家機関の建物、党本部を訪ね歩いている。こうして見ると、それぞれの政治家や党のスタイルや性格の違いが建物に鮮明に見られる。そういう点で興味深い。ただ、そこから一般化するところまでは行きついていないなという印象も。私自身の興味が、ブローデルが言うところの歴史の三層構造の中層、ある程度の期間持続する構造にあるというところで、かみ合わないのかもしれないが。
 しかし、権力の中枢にいるような政治家のいるところには本当に人が集まるのだな。だからこそ、豪邸が必要になるし、そのために金がかかると。あと、戦中の軽井沢での和平工作とそれが軽井沢の外では現実性を持たなかったという話も興味深い。あとは、先日読んだ『「海の道」の三〇〇年』と本書が描く宮沢喜一の語り口の差とか。
 序論で紹介されている水谷三公『貴族の風景:近代英国の広場とエリート』平凡社、1989asin:4582472222と『将軍の庭:浜離宮と幕末政治の風景』中公叢書、2002asin:4120032752がおもしろそう。


 以下、メモ:

 だが「建築と政治」の相関関係は、実はもっと動態的に捉えることができるのではないか。双方のダイナミズムの上に成り立っているものではないのか。必ずしも記念性・象徴性を伴わなくとも、日常性の中にこそ、かえってそのダイナミズムは生き生きと存在しているのではないか。第一次的に建築が政治を規定するならば、第二次的には今度は政治が建築を規定しようと図る場面が必ず出てくるに相違ない。しかもその相互の緊張関係を、意識してか否か、権力者はまず自らの書き物の中に書き残している。p.16

 尺の問題もあるんだろうけど、ダイナミズムを描きだすまで入っていないような。

 行政の一線に立つ人たちの“文化”が新しいオフィスで変容することもある。旧内務省ビルが解体されて一時期、自治省JT日本たばこ産業)ビルに引っ越したことがあった。1990年代半ばのこと。研究会で通っているうちに、旧内務省ビルのいかめしさから解放され、私企業のビルのような配室と配置に元気が出てオシャベリになった若い官僚の姿を見て、なるほどと納得したものだった。同じ頃、都庁新庁舎の大きな執務室を区切るパーティションの背たけが低いことで、随分と情報交換がたやすくなった様に感心したことを思い出す。p.18

 建物が人に与える影響。

日本では忘却、海外では注目の都庁舎の「象徴性」
 新宿の都庁舎の使い勝手の悪さにも定評がある。というよりも、最早余りにもあたり前なので誰もが口の端に上らせなくなった。鈴木俊一青島幸男石原慎太郎と三代にわたる都知事からも、住み心地や動線のあり方について殊更云々したということを聞かない。果たして完成からほぼ二十年たち、権力機構の館として定着したのか否か、国の館や地方府県庁の館との比較論も耳にしない。その意味では建設時にあれだけ騒がれたのがウソのように、都庁舎は相変わらず記念性・象徴性を帯びながらも、今は静かな佇まいのままそこにある。
 実はそのことが、今の東京“国”と“日本”国の政治・行政のあり方を明示しているのだ。東京都と国は、双方がよほど意識しないと、常に相互不可侵、相互無関心の“無関係性”で落ち着く。今や新宿と霞が関や永田町との心理的空間は、とても遠くなってしまった。二十一世紀の都と国の統治のあり方について本格的な議論がおこらぬ限り、都庁舎が「アーキテクトクラシー」の産物であることは、ついに忘却の彼方から蘇らないであろう。その意味で次の都知事の座に誰がすわるのかは、注目に値する。
 だが記念性・象徴性に満ちた都庁舎と「アーキテクトクラシー」は、時に今なお海外の権力者の注目を惹く。ロシアの専門家・袴田茂樹は平松剛『磯崎新の「都庁」』の二〇〇八年度サントリー学芸賞選評の中で、次のように述べている。「一時は最有力のロシア大統領候補の一人と見られたモスクワのルシコフ市長は、権威と力を重んじる政治家として有名だ。彼が訪日したとき最も強い印象を受けたのは、丹下設計の東京都庁の建物であった。個人的な話の中で、モスクワにもあのような市庁舎が欲しいと述べていた」。(『サントリー学芸賞選』サントリー文化財団、二〇〇九年)むべなるかな。p.266-7

 実際、東京都庁舎は権威主義的だと思う。
 先日リンクした大塚英志の建築家批判(http://www.news-postseven.com/archives/20110603_21936.html)も、この「アーキテクトクラシー」への批判なんだろうな。