川那部浩哉『魚々食紀:古来、日本人は魚をどう食べてきたか』

 古代から江戸の文献に見る魚の食べ方、古典文学の引用、著者の魚料理の評価、当該魚種の生態などをつらつらと書くエッセイ。まあ、基本的には関西方面の魚の食べ方に江戸時代の食文化が構成要素なのかな。琵琶湖あるいは関西で出回っているような川魚・海魚が多いように感じる。熊本あたりではナマズやモロコはあんまり食べないような。まあ、近代化で河川の汚染が進んで食えなくなっただけなのかもしれないが。
 さまざまな俳句や狂歌が引用されているが、ああいうのって慣れないと楽しめないんだよなあ。そもそも意味が取れないし、パロディはネタ元を知らないとおもしろくないし。


 以下、メモ:

 考えればヒラメは、専ら刺身にする魚だ。せいぜいが煮付と素揚げで、焼物にすると味は大いに落ちる。鮮魚としての利用は、あるいはこの頃まで少なかったのかもしれない。p.128

 すなわち、ホシガレイ・イシガレイ・マコガレイメイタガレイ・ヤナギムシガレイなど、生乾きにしまたは完全に干しあげて美味なもの、あるいは比較的小型で、冬に漁獲されて少量の水で生きているものだけが、珍重されたのだろうか。p.129

 カレイとヒラメの話。江戸時代までは、カレイの評価が高く、ヒラメの評価が低かったという。その要因として、流通のあり方が問題だったのではないかと指摘する。コールドチェーンの発達以前は、鮮魚って食べられなかったんだろうな。

初カツオは十七世紀から
 『本朝食鑑』は、いつも言うように十七世紀末の書だ。ここでは生食のものが先ず語られるが、島田勇雄さんの訳によってそれを適宜に引用すれば、次のようになる。
  芥醋酢に和したり、あるいは冷塩酒に和したりして、これを俗に指身(さしみ)と称
  している。膾は厳醋・白塩・蓼・蘇・薑・橙を用いて調和してもよいものである。大
  抵魚毒に中てられた場合を、通俗に「酔う」という。就中鰹に中毒した場合、酲のよ
  うに面は赤く、頭は眩めき、身には紅暈を発す。甚だしい場合には、吐瀉および気絶
  して死にそうになるが、命を失うほどのことは少ない。肉、甘温。有毒。餒(くさ)
  った魚を食べると酔う。またたとえ鮮しいものとはいえ、一夜を経、一日を経たもの
  で膾や炙りものにしたりすおづけうおして食べると、必ず酔う。
大和本草』も同様に、
  多く食へば血を動かし、皮膚に瘡瘍や赤斑ができる。
  毒があって、それに当ると全身が紫色になり、頭痛を起こして大騒ぎになる
と書き、さらにわざわざ、
  くさりたるもの毒有り、食うべからず
と付け加える。
 初鰹が語られはじめるのは十七世紀中葉と聞くが、鎌倉で獲れたカツオが賞味されるようになったのは、明らかに海上および陸上の輸送手段が発達し、腐る以前に江戸に着くようになったことの結果である。からし酢を専ら用いたのは、これまた明らかに毒消しの効能を求めたために他なるまい。p.138

 カツオをコストをかけて急送しても、買ってもらえるだけの需要が出てきたということだろうな。しかし、そんな食中毒の危険を冒してまで食べなくても…

 琵琶湖から流れ出る瀬田川に南郷洗堰が作られる以前は、大阪湾から淀川を遡ってくるものがいたことを、滋賀県水産試験場の柳本斗夫さんが1911年の論文に書いている。当時それは中アユと呼ばれ、対して琵琶湖のアユで周囲の川に遡って大型になるものは大アユ、夏のあいだも琵琶湖に留まって大きくならないものは子アユと呼ばれて、三つのものが区別されていた。しかし海からの中アユと琵琶湖の大アユ・子アユとは、その間ずっと交雑せずに来たのである。また、琵琶湖のアユは全国各地へ年々放流されているが、それと海からのアユとの子どもは僅少で、しかも琵琶湖のアユの子孫は海では殆ど死んでしまうことも、近年明らかになって来ている。p.163

 琵琶湖のアユと他の川のアユは交雑しないという。琵琶湖のアユは淡水に適応しきったのだろうなあ。実に興味深い。

 それから月日が経って、第二次世界大戦が終わった後の1968年頃から、シラスウナギの不足が深刻になり、ヨーロッパ・東南アジア・ニュージーランドなどから十種あまりが輸入されて、養殖または放流されている。この異なる種のウナギの輸入とともに、魚疫もまた輸入されて、大きい打撃を与えたことも、知る人は多いことだろう。日本の防疫制度には不思議なところがあって、水生生物は検疫の対象になっていないのだと聞く。いや、このあたりのことは、松井さんの大著『鰻学』その他に任せることとしよう。p.186

 …なにそのザル検疫。現在は変わったのだろうか。