谷口克広『信長と将軍義昭:連携から追放、包囲網へ』

 タイトルの通り、信長と義昭の関係を整理した本。二者の二重政権が結構後々まで連携を続けていたこと。元亀年間あたりから徐々に関係が悪化し、最終的に決裂する。将軍である義昭が、京都を中心に関西地域に対する政治的影響力を一定程度保持していたこと。浅井朝倉や武田家、関西の諸勢力の糾合で、挙兵時点で一定の軍事的な自信を義昭が持っていただろう事。追放後も、義昭が、信長包囲網を形成すべく、各地の戦国大名に働きかけを続けていた状況などなど。
 しかしまあ、著者の義昭に対する評価の辛さははちょっときつ過ぎなんじゃなかろうか。確かに、義昭が、育ちもあって、世論をあまり意識しない政治家であったことは確かなんだろうけど。もともと僧職にあって、兄義輝暗殺後に、還俗して将軍になった身として、一から自己の政治的基盤を築くのに少々無理が出るのは致し方ないことなのではないだろうか。あと、追放後の信長包囲網構築の努力を、「現実を見ていない」的な見方をしているけど、京都を脱出し、信長を味方につけ、将軍になったという「成功体験」を考えると、戦国大名を動かして信長追放という試みを続けたのも故なきことではないと思う。まあ、後世から客観的にみると、無理だろうなとは思うが。
 あとは、信長に対抗する諸勢力が、五月雨式に動いて、各個に撃破されている姿とか。本格的な危機は元亀元年の志賀の陣くらいなのか。このとき、各勢力の連携が取れていれば、あるいはという状況だったのかね。信長と信玄の関係がかなり長い間良好で、信玄の攻撃は、信長にとって青天の霹靂であったという。信玄がもう少し長生きしたら、どう展開していたのかね。義昭と上杉謙信の信頼関係というのも興味深い。


 大河内城攻めや最初の朝倉攻めで将軍親征を行おうとする、本願寺との戦闘での和睦の試みなど、将軍の権威の利用がさかんにが行われていること。志賀の陣では、浅井朝倉連合軍との和睦に際して、朝廷を仲介者にしている。京都を押さえるってのは、実質的な意味を持つ行為だったのだな。かなり有利な講和を行うことができる。まあ、本願寺攻めでは、相手にしてもらえなかったようだけど。
 元亀三年あたりまでは、互いに摩擦はありながら、共存が行われていた。義昭は、各地の戦国大名との関係を深め、存在感を誇示しようとした。しかし、最終的に、元亀三年の十七ヶ条の異見書によって、決定的な決裂に流れていく。
 元亀三年、武田信玄の信長との敵対の決意によって、義昭は信長との敵対の道を本格的に歩みだす。信玄の軍事行動が始まった段階でさえ、信長が敵対関係に入ったことに気付いていなかったというのが興味深い。しかし、朝倉氏との連携もうまくいかず、信玄の病死によって、信長包囲網は破れる。
 義昭の軍勢は信長軍によって破られ、最終的には、義昭は京都を追放され、室町幕府は事実上滅亡する。しかしまあ、関西の反信長勢力の連携の悪さはなんともはやとしか。松永久秀や三好義次も、実際の戦闘には軍勢を送ってこなかったわけで。戦闘になると、信長軍に敵わなかったんだろうな。なんか、2ちゃんねらーみたいだ。


 京都を追放された義昭は、その後、若江城、堺、紀伊の由良興国寺と流浪する。その間も、信長包囲網構築の努力を続けるが、結局は、果たせず。天正三年以降、二年ほどの沈黙の期間をはさみ、天正四年に備後の鞆に移転する。
 天正四年になると、毛利家と信長の勢力圏が接近し、毛利家は信長との敵対の選択する。武田家にしろ、毛利家にしろ、上杉家にしろ、勢力圏が近接するにつれ、敵対関係に入っていくのが興味深いな。具体的にどういう摩擦があったのだろうか。そして、五月雨式に敵対関係に入った結果、各個に撃破されていく。本能寺の変があった時点で、毛利も、上杉も、防戦一方で、そう長くは持たなかったという
 義昭が、あくまで信長のいない京都を目指したこと。信長の死後、時間を経て、秀吉の下で京都に帰還するが、その後は特に行動していない状況。
 なんというか、信長も義昭も、執念深い人格ではあったんだろうな…


 気になる点としては、「天下」というのが、限られた意味しかもたなかったこと。その上で、信長が、「天下布武」「天下静謐」から、全国制覇に、どの時点で考え方を変えたかが明確に語られなかったことが気になる。本書末尾では、普通に信長が全国制覇を目指していたような書きぶりだけに。先に、『織田信長〈天下人〉の実像』を読むと特に。