倉本一宏『蘇我氏:古代豪族の興亡』

蘇我氏 ― 古代豪族の興亡 (中公新書)

蘇我氏 ― 古代豪族の興亡 (中公新書)

 蘇我氏の出現から、中世の歴史から完全に姿を消すまでを描く。「大化の改新」で消滅したように思っていたが、一族はしぶとく生き延びていたのだな。奈良時代以前の、史料の読み解きが、どうにも難しいが、古代の日本の政治史を、蘇我氏という観点からすっきりと整理できておもしろい。
 「氏族」の形を成す前の「葛城集団」から分出、様々な遺産を相続した集団が蘇我氏である、と。渡来人の技術や王権の家政を掌握することで政治を主導。さらに、葛城の衣鉢をついで、大王家と縁組、身内となっていた。
 また、飛鳥周辺に蘇我同族の氏族を分出させ、マエツキミ層による合議体制において議席を大幅に占拠。自らは、大臣(オホマエツキミ)として、政治の主導権を確保。しかし、それは、現在の中東の王族のような、同世代継承が一般的な状況では異端であり、近親間の対立をはらみやすいものであった。また、分立した蘇我氏同族も、自己の利害で行動するものであり、蘇我宗家の支配力は脆弱なものであった。それが、乙巳の変であっさりと滅び去った要因であった、と。
 蘇我氏と対立した物部氏乙巳の変を起こした人々と、政治路線の点で、それほどの差がなかったというのも興味深い。物部氏の本拠地でも、仏教寺院が造営されていて、排仏一辺倒ではなかったと。また、蘇我入鹿中大兄皇子中臣鎌足は、隋唐帝国の出現とそれに伴う国際秩序の再編という共通の課題に迫られ、それに対応する情報源も同じだった。高句麗式の傀儡化した王権での個人独裁を目指す入鹿と官僚制的な中央集権国家を整備しようとする志向の鎌足以下の目指す路線の違いが、最終的に武力衝突を生んだ、と。


 蘇我氏宗家は、クーデタで滅ぼされたが、蘇我氏の一族は政治力を維持し続けた。唯一の「大臣家」で、大王家の姻族という家格は、重視された。一方で、独自の軍事力を失ったため、大王家と密着する必要があり、政争に巻き込まれて、力を失っていった。氏上を継いだ石川麻呂の系統も、内部対立や壬申の乱に巻き込まれて、勢力を大きく減じる。さらに、新たな姻族として台頭してきた藤原氏に警戒され、蘇我氏系王族ともども、排除されていく。奈良時代前半には、議政官になった蘇我氏・石川氏は存在しない。蘇我氏律令官人石川氏として復権すべく、律令の実務のエキスパートとなることに活路を求め、主要な人物が大弁などの弁官として、歴史に現れるようになる。しかし、それも、脆いもので、藤原氏が数を増やし、中級レベルの官職に進出するようになってくると、それに追い出されるようになってくる。その状況で、石川氏から宗岳氏への改姓が行われる。過去の栄光にすがらざるを得なかった、と。


 平安時代以降は、中級以下の氏族に没落し、五位以下の実務官人として活動する。さらに、院政期になると下級官人の供給元となり、有力者の私的な引きで官職に就任するようになる。これは、他の古代氏族と同様の流れ、と。一方で、大蔵省の下級官人として活動し、平安京の周辺に広大な土地を獲得したり、富を蓄える者。また、もともとの根拠地である河内国で、依然として地域に有力な力を保持し続ける者が存在し続けた。そして、彼らは河内源氏の郎党となっていく、と。このあたりの古代豪族の展開は、森公章『古代豪族と武士の誕生』の議論と繋がる感じだな。


 蘇我氏同族も、古代を通じて、中下級官人の出身母体であり続けた。特に、田口氏は、天皇の外祖母を出したことで家格を上げ、平安時代には女官を多く出している。