遠藤慶太『六国史:日本書紀に始まる古代の「正史」』

 日本書紀に始まる六国史が、どのような方針で編集され、どのようなバイアスがかかっているのか、その後、どう読まれたかを描く本。切り口がおもしろい。けど、咀嚼できているかは微妙。というか、六国史そのものを読んだことないしな…


 全体としては、祖型となった『日本書紀』、桓武天皇の政治的影響が強い『続日本紀』『日本後紀』、平安時代安定期の『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の三パート+その後の中近世、近代にいかに読まれたかという話で構成。


 最初は、神代から奈良時代に至る『日本書紀』。
 雄略天皇から持統天皇の時代までは、445年制定で、697年まで使用された元嘉歴、それ以前の部分には、より新しい暦法である儀鳳暦が使われているというのも興味深い。雄略以前は、新しい時代に、紀年が設定されたということなのだろう。
 あと、神武天皇の即位を辛酉の年紀に、特に推古天皇9年の辛酉から1260年前の辛酉にこだわって、古い時代の年紀が引き延ばされてしまったという指摘が興味深い。それに伴って、百済などの歴史書に記された事件の年代と日本書紀に記載された年代がずれてしまっている。一方で、伝わっている歴代にはこだわって、新たに架空の天皇を挿入していないという、微妙な生真面目さも興味深い。
 日本書紀的には、神功皇后魏志倭人伝卑弥呼という解釈がおもしろいな。何らかの伝承が存在したことは間違いないようだが。
 壬申の乱のような新しい時代には、政治性が強くなる。それでも、素材そのものは割と正確であった可能性が高い。しかし、それでも天武の正統性という部分で縛られている。「全体の構成や記述の比重」によって天武の側の正しさを主張している、か。こういうところを読み解くの苦手。
 あとは、日本書紀の講義が行われたらしいとか。編集資料として外交関係者の記録や百済の歴史書が重要で、特に百済年代記類の主張が日本書紀に投影されているそうだ。


 第二章は、桓武天皇の政治的影響下で揺れた、『続日本紀』と『日本後紀』。
 しかし、なんで、『日本後紀』は散逸してしまったのだろうなあ。なんか、政治的背景でもあったのだろうか。流布が憚られる事情とか。
 あと、桓武を「英主」というのは、ちょっと微妙な気がする。血統で劣った弱い天皇が、外征と建築で自己の権威を高めようとした、個人的理由で国を傾けたわけで。平安朝の「悪政」の嚆矢だと思うのだが。
 自分の子供に皇統をを継がせようと、弟早良親王を失脚殺害。その後、弟の怨霊におびえ続ける桓武は、早良親王に関する記述を完全に削除させた。それは、時代の平城・嵯峨の両天皇の争いにも影を落とす。早良親王の記述を復活させるか、否かが、一つの争点になり得た。
 格式や木簡、正倉院文書などと突き合わせることができるので、古代史としては非常に研究が進んでいる続日本紀。政変が繰り返されただけに、編集には苦労した。あるいは、桓武の歴史書へのこだわり。そして、日本後紀の、死んだ廷臣の評伝「史臣評」の厳しい評価も入った、独自性。そして、それが、桓武のお気に入りで、その後冷や飯を食った藤原緒嗣の屈折を反映しているという指摘など。


 第三章は、平安時代宮廷社会の成熟の中の正史。
 仁明天皇一代の『続日本後紀』、同じく文徳一代の『日本文徳天皇実録』、そして、六国史の最後を飾る清和・陽成・光孝の三代を収録する『日本三代実録』。しかし、御所内で、乳兄弟をぶん殴り殺す天皇とか、本当に前代未聞だなあ。その後も、暴れ回ったようだし。
 怪しげな仙薬を飲む仁明もヤバいな。自分で飲む分には自己責任だけど、廷臣にも飲ませるとか。身体が弱くて、実際の政務にはほとんど携われなかった文徳。結局、内裏に入ることも出来なかった。藤原氏との微妙な関係。逆相続で陽成失脚後に帝位に就いた光孝などなど。あるいは、儒教マニア宇多。
 この時代の前半には、天皇との信頼関係を築くことができた学者が、その文筆の才で政治の中枢に立つことができた時代。わざわざ、席を空けて待ってる天皇とか、すごいなあ。しかし、それも菅原道真の失脚で終わる。
 また、陣定によって政務が処理され、天皇が不在でも宮廷が回るようになっていく契機となった、文徳天皇の時代。
 また、政治の安定とともに、宮中儀礼をきっちりと繰り返すことが、政治の重要課題となってきた。同時に、家柄で昇進や職務が決まるようになってきた時代。先例の情報源として、六国史は利用され、そのために、テーマごとに細分化した『類聚国史』が編纂される。
 また、職務が継承されることになり、必要な情報は日記類で事足りるようになったことが、国史編纂の必要性を薄めさせた。


 最後は、国史編纂が行われなくなった時代以降の、六国史
 続く国史は、編集作業は行われたが、公開されることなく終わった。なんか、外記の中原師平が焼いたなんて説話が、タイトルだけ残っているそうで。外記の地位を全うする上で、こういうの邪魔だったのかね。情報の秘匿を狙ったとか。
 先例の情報源としては、貴族たちが書き残した日記類で、代替できるようになる。仮名書きの歴史書栄花物語大鏡などが、それらを参照して書かれることになる。
 正史の後を継ぐのが、『源氏物語』という思想が現れるというのが興味深いな。三条西家による『源氏物語』の経典化の試み。その材料としての、六国史
 あるいは、吉田家による、「神祇」の経典としての日本書紀のの継承研究。神代の巻は、そのために写本の数が飛び抜けて多いとか。吉田家は、日本書紀を書き換えて、自分の家の家格を高めようとしたとか。アマテラスの本地が大日如来と中世流の解釈を行うなど。
 近代に入ると、中世のような秘伝による継承から、公開と出版へと、パラダイムが変わる。出版文化の隆盛。徳川家康の書写事業、徳川光圀による『大日本史』編纂事業が本文の探索と知見を深め、塙保己一による『日本後紀』の一部本文の発見につながった。
 近代に入ると、王政復古ということで、国史編纂が何度か試みられるが、結局挫折。東大の史料編纂掛による『大日本史』の刊行。その、「綱文」が「正史」の代替物のようなものであると。
 中国や台湾では、国家が正史を校訂して出版する事業に関わっているが、日本では政府が関わっていないと。これは、近代国家としては当然なんじゃないかな。特に戦後の体制で、それは難しそう。


 以下、メモ:

 反対に支障なく進行する政務・儀式などは、国家がまとめる六国史が記載すべき対象からも外された。『続日本紀』完成時の提出文書をみると、「時節に従って行われる恒例の行事は、各役所に資料が残っているから採録しない」、「以前にまとめられた曹案〔史書の原稿〕は米塩が多いため、再改訂を命じた」などと書かれている。
 古代の人びとにとって当たり前であった「米塩」(日用必要な米と塩。また細かく煩わしいことも喩えた)は、「鑑戒」(後代の拠りどころとなる戒め)をめざした史書の世界では対象とされなかった。古代の生活史を再現するためには、木簡のような日々の断片に期待が寄せられるゆえんである。そもそも史書と木簡では、史料としての対象が違うことを、理解しておこう。p.14

 後世の人間は、その「米塩」が分からなくて苦労するんだよな。役所の資料は散逸して、米塩を抜いた六国史しか今に伝わらない。
 歴史って、勉強すればするほど、わかんなくなっていくんだよなあ。圧倒的空白というか。

 六国史についてもそうである。三条西実隆・公条父子は六国史すべてを書写した。それも三条西家で書写された本文が、その後に世間に広まる六国史となっていく。反対に三条西家が入手できあかったもの――『日本後紀』全四〇巻のうち四分の三は、現在にいたるまで世に現れていない。三条西家が書写できなかったものは、今日に伝えられなかった。このことは、三条西家で行われた書写が、六国史を現代に伝えるにあたって、どれほど意義ある営みであったかを証明する。p197-8

 現代への継承における三条西家の重要性。つーか、なんで、『日本後紀』だけ散逸したんだろう。