近江俊秀『平城京の住宅事情:貴族はどこに住んだのか』

 平城京において、どのように屋敷が立地したのか。その背景を探る本。おもしろいけど、内容を咀嚼しきれていない。
 平城京の時代に上級貴族の邸宅がどこにあったかは、不明な事例が多いという。発掘調査の結果明らかになった長屋王や他の文献で言及されている藤原不比等は、例外と。1町以上の敷地を持つ邸宅が発掘されても、その屋敷の所有者が誰かを明らかにするのは大変。むしろ、東大寺文書に残る借金証文に担保として差し出した屋敷の情報が残っている中下級の役人の方が、情報が残っているそうだ。


 日本書紀続日本紀には、宮殿敷地に対する補償を行った記事があり、平城宮やその周辺の土地は、国家が買い取った形になる。大半は、宮殿の敷地になったが、周辺の国有地には、敷地と建設費用が支給された屋敷が立ち並んだ。不比等邸は、このような屋敷の一つ。しかし、支給された屋敷は、役職に基づくもので、相続などが許されない。このため、不比等邸や長屋王邸は、その後、収公されて、寺や役所に変えられた。
 一方、自分で代金を払って、土地を取得した場合は、個人ないし家に強い財産権が発生する。結果、そのような個人財産は、一族内で相続されていく。藤原氏各家の屋敷の相伝や各種の相続に関する史料が紹介されていく。
 しかし、宮殿を建設する時に土地代が払われていたり、様々な人々で財産が相続されている状況を見ると、律令の「公地公民制」ってなんやねんという気持ちになってくるな。


 左京三条三坊三坪・六坪の屋敷を、屋敷として利用されていた期間や瓦の供給元などから、舎人親王のものだと推定した章。あるいは、近い場所に集中的に屋敷を置き、また、水運を重視したとおぼしき大伴氏の屋敷の事例。具体的な話が出てくると、読みやすい。