柏原宏紀『明治の技術官僚:近代日本をつくった長州五傑』

 どちらかと言えば、政治家と官僚の分かれ目って感じのする話だが。


 長州ファイブとも呼ばれる、密航で英国留学を行った長州藩出身の伊藤博文井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三の長州五傑の経歴を下に、「技術官僚」の要求される専門性や形成期の制度のあり方を明らかにする。
 しかしまあ、長州藩といい、伊藤博文井上馨といい、思想的定見のなさがすごいな。長州藩、国内政治で主導権を握るためのファッション攘夷で圧力かけまくったら、引っ込みがつかなくなって、下関戦争や蛤御門の変に追い込まれる。
 長州五傑も、伊藤、井上馨、山尾庸三の三人は、過激な攘夷運動に加担して、外国人へのテロや国学者暗殺に加担しておいて、海外留学のチャンスが来たら、コロッとそっちにいっちゃうのは、さすがに一貫性のなさに引く。
 一番目立たない遠藤謹助の、最初から目立たない経歴も印象的だな。逆に、伊藤博文なんかは徹頭徹尾、政治的に動いているというか。攘夷運動も、自分を売り込むための手段と割り切っている感じかなあ。
 政治的危機に留学を打ち切って帰国する伊藤・井上馨の行動の政治家性。逆に、他の三人は、もっと学問・技術者的な資質が強かったのかね。


 留学がその後のキャリアに与えた影響も興味深い。比較的短期間で留学を打ち切った伊藤、井上馨、遠藤も、外国人とコミュニケーションを取れることが、梃子になった。さらに、前二者は、その後も、国費で洋行を行う機会を得ている。特に、伊藤は、ドイツでの法制研究が、その後政権の中枢にとどまるための重要な武器になっている。法制官僚と対等に議論できるというのは、憲法の制定と国会の設置という課題を推進する上で重要であった。
 一方、井上勝、山尾庸三は、大学の課程を卒業し、さらに、実地研修も受けて帰国。極論すれば新卒強くらいの経験レベルだけど、見積もりや人選には、それだけでも替えがきかないほどの技術だったのだろうな。ぼったくられたり、素人の売り込みを排除できて、見積もりや技術的な見通しができれば、官僚としては充分と言うことか。山尾は工部省のボスとして、井上勝は日本鉄道の礎を築いた者として、後世に相応の知名度が残る。
 山尾の工場建設の情熱は空回りした感があるけど。あと、遠藤の目立たなさ。造幣局で技術者として長く過ごし、その後も官僚として造幣行政の中核にいたわけだけど。


 明治10年代の政府中枢のキャリアの話も興味深い。
 幕末の政局を主導した薩長土肥の政治家たちが退場した後、政府の中枢である参議兼大臣であった人々は、洋行経験があり、かつ、省庁の次官である大少輔を経験した官僚政治家であった。欧米事情を実地で体験してくるというのが、政府中枢に居るための必須のものであった。
 その後、憲法制定と国会開設で、新たに政党政治家という類型が政治的中枢に入り込んでくる。それに備えるべく、井上馨は政府寄り政党の結成を提案するが、伊藤をはじめとする他の理解が得られず頓挫する。その後、実際の政局を運営経験から、伊藤も政党結成を模索するが、今度は井上馨に協力を拒否されてしまう。汚職で有名な井上馨だが、政治的な嗅覚は優れていたということなのかね。そして、国会開設を推進した伊藤博文が、必ずしもそれがなにを起こすか理解していなかったという対比も興味深い。
 一方、技術官僚にとどまった他の三人は、新世代の、高度な教育を受けた官僚たちに追い越されて、主導的地位から退いていく。その後も、官僚としてのキャリアは続くが、技術とはかけ離れたところに動いていく。