大阪府立狭山池博物館『新大和川と石川の治水絵図』


 2023年度に開かれた特別展の図録。龍野歴史文化資料館蔵の「新大和川・石川流域図」と堺市博物館蔵の「大和川筋図巻」を並べて、近世の治水の技術を検証した展示。前者は、赤穂浅野家の分家で、現在の兵庫県相生市の若狭野に陣屋を置いた若狭野浅野家に伝わった文書に含まれていたもの。初代長恒が堺奉行としての職務中に取得した絵図が現在に伝わったもの。近代に入って、若狭野浅野家の当主と旧家の子女が結婚したのを契機に、旧家に移管され、そこから龍野歴史文化資料館に寄贈されたという経緯が興味深い。
 ただ、現地の土地勘がないため、こまかく見て楽しめるかというと。都市化が進んで、地理院地図と付き合わせながら、往時の姿を想像するのも結構難しい。


 水制や堤防、また水制の材質などもこまかく描き込まれて、当時の治水技術が想起される。あちこちに水制が築かれ、堤防を守る。また、新大和川や石川の下流域では、木杭の水制や堤防の基礎を守る根杭が設置される一方、流れが強い上流側では、石を籠に詰め込んだ蛇籠で水制や堤防の護岸が築かれている対照。
 壺井村あたりには、堤防の隙間が空いた霞堤が設置され、遊水池となっているのは、一番弱い、大和川旧河道の締切り部を守るためで、流域全体を見渡した計画が行われていることが窺える。
 霞堤、遺構は残っているけど、新しく作られた堤防でブチブチに切られているのだな…


 大和川と石川の合流部、旧河道を締め切った築留周辺の厳重な防御ぶりも印象深い。霞堤に、二重堤に、築留の正面には水制がたくさん設置されて。築留上流の二重堤の間は、旧河道への水を供給する水路になっているのも興味深い。
 新大和川によって水路を切られた北側への用水の供給路である樋も、なかなか維持管理に手間がかかりそうな感じなのが。


 特別論考として、小山田宏一「近世治水灌漑技術の成立と東アジア海域の類例」が収録されている。中世までの日本列島の治水技術とは、思想そのものが違っていて、突然、近世の初頭に完成されたパッケージが出現している。これは、海外から輸入された技術ではないかと指摘する。
 溜池の取水口には、立樋に複数の取水口を開け、水位に応じて取水できる尺八樋が導入される。これは、朝鮮半島からの移入で、秀吉の朝鮮侵攻の際に導入された可能性が高い。そして、その技術は宋・元の時代の中国の水利技術で、朝鮮半島でそれ以前の発展を追うのが難しいという。
 また、石積みの護岸・水制に関しては、銭塘江の逆流に対する護岸や黄河の護岸が参照された可能性が。遊水池機能を持つ二重堤については明代後半の黄河の治水技術が導入された可能性が高いと指摘する。これ、書物情報から、日本国内で検討されてできたものか、倭寇集団経由で技術者が来日していたのか、今となっては手がかりのなさそうな問題だなあ。