保阪正康『そして官僚は生き残った:内務省、陸軍省、海軍省解体』

そして官僚は生き残った 昭和史の大河を往く 第十集

そして官僚は生き残った 昭和史の大河を往く 第十集

 週刊誌の連載をまとめたものなのでサクサクと読める。興味深いんだけど、読んでて微妙に気になることがいくつか。まず、第一に内務省陸軍省海軍省の解体はGHQとの関連でなされたものなのに、アメリカ側史料が全然使われていないこと。日本側の情報だけなのが気になる。内務省の解体やその後の方針が、GHQ内の対立、特に民政局とG2の対立の影響を受けていた以上、アメリカ側の関係者の史料の利用は必須と思うのだが。アメリカ議会図書館を漁れば、ザクザクとこの時期の文書は出てきそうだけど。第二は、情報源のバイアスの問題。後になって書かれた手記や回想録、インタビューが情報源として利用されているが、時間がたってからの記録は、その後の展開によって、その時その時の感覚とちがう文脈が付される可能性があるのだが、そのあたりはどの程度意識しているのだろうか。あと、海軍へのひいきがどの程度、歴史の解釈に影響しているのか。明らかに陸軍に厳しく、海軍に好意的だしな。まあ、私自身心情的には同様だけど、だからこそ余計に気になるというか。細かい動きについて無知なだけに、最初に読んだ本からあんまりバイアスを受けたくないなという気分が。
 しかし、終戦後早い段階から、開戦当時の歴史をまとめはじめた海軍が興味深い。明らかに、陸軍に引きずられて戦争に巻き込まれたと海軍の戦争責任を回避し、自己正当化するためのものなんだけど、そのあたりの歴史や社会に対する見識の違いが、後世の評価の差になって現れたのだろうな。まあ、陸軍はどうあがいても有罪だったわけだが。
 あと、警察予備隊に食い込もうとする服部卓四郎らの動きとか。実際、開戦時の中枢の人間が復活しようとか、本当に厚顔無恥だよなと思った。


 以下、メモ:

 「即ち、無辜の民衆に対する殺戮、同民族中華民国人に対する蔑視感、強姦、掠奪等の結果は、畏れ多き事ながら、或る高貴の方をして、皇軍を蝗軍と呼ばしめ奉るに至ったのである」
 こうした指摘は、昭和十二年、十三年の中国における日本軍の蛮行について省部の幕僚たちはすでに知っていたのであり、ある皇族もまた嘆いていたことを窺わせる。O大佐は、このような行為が陸軍に対する他の官庁、そして民間側の不信感につながったと正直に吐露している。心ある軍人はこのような反省の心をもたなければならないと強調している。p.89

 藤本弘道『陸軍最後の日』新人社、昭和20年12月という書物を引用して。どの程度の信憑性があるか不明だが、この時点で、中国大陸における蛮行をいう指摘が、国内でも出ていたのだな。

 さらにO大佐は、陸軍の人事についてもふれている。「まことに恐るべきことは、第一線に出されることが懲罰とされてゐたこと」との指摘である。省部にあっても、ある高級将校は、「俺の云ふことを聞かぬ奴はニューギニアの第一線にやるぞ」と部下を脅していたという。事実そのような例があったと、二、三の例も紹介しているのだ。
 陸軍の人事で、第一線に送られるのが懲罰である軍隊がどうして強い軍隊たりえようか、というのは誰もがうなずける。p.91

 第一線に送られるのが懲罰というのはどういうことかという批判は的を射ている。が、実際、ニューギニアの戦場は地獄だったわけで、それを知っているからこその脅しになったのだろうな。前線の将兵を馬鹿にした話ではあるが。太平洋方面の戦場はどこも地獄だな…

 山田久俊氏は晩年のケーディスになんどか会った折、彼の日本観について質すと次のように答えたという。
 「(ケーディスは)リスポンシブル・ガバメント、すなわち国民にたいして責任のある政府をつくることが自分のいちばんの関心事だったと、私に言いました。リスポンシブル・ガバメントをつくったあとは、間違えるのも間違えないのも『イッツ・アップ・トゥ・ユー』、ようするに日本の問題じゃないかと考えていました。彼の理想は、日本の国民自身が自分たちの運命を決めることのできるシステム、政府をつくることだったんじゃないかなと思います」(これらの証言は拙著『昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』の「解説」欄での私との対談からの部分引用)p.126

 結局、その「リスポンシブル・ガバメント」って出来てないよね(´・ω・`)
 まあ、「リスポンシブル・ガバメント」なるものが、世界に存在しうるのかという問題はあるが。実際問題として、政治的な有効性が日本では極端に低いうえに、異議申し立ても難しかったりするからな。

 わたしが『後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』を書くときに、後藤田をはじめとして旧内務官僚たちにも話を聞いていった。その折に印象にのこっているのは、内務省のキャリアの恵まれた地位について、どのような思いをもったかという話である。とくに印象的だったのは、高等官は地方にいっても初めから扱いが違っていて、トイレも一般職員とは異なるし、むろん食堂なども異なっていた。それだけ別扱いだったというのだ。p.133

 なんだかなあ。

 敗戦が濃厚になって、占領も覚悟しなければならなくなったときに、国民の弾圧機構とされたこの警察組織をかばいだてする論理を内務省は欠いていたということであろう。
 GHQの内部でも、民政局(GS)は特高警察に対して激しい憎悪感をもっていたが、しかし参謀第2部(G2)は必ずしもそうではなかった。この部門の局長であるチャールズ・ウィロビーには『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』という書がある。そこでウィロビーは「わがG2は、日本占領にあたって、治安・情報担当とともに、占領政策の施行にも関与するはずだった」といい、しかし民政局が日本全体の改革を目的にして「新憲法起草はむろんのこと、公職追放財閥解体、農地改革、国会対策、さらには婦人参政権隣組問題にいたるまで」手を広げたことに強い不満をもっていた。p.142

 この手の諜報・治安畑の人間が政治に関与すると碌なことはないよな。後暗い連中と付き合っていたようだし。

 陸軍が<歴史>とむきあっての資料を残せなかったのは――むろん一部の軍人が残した記録があるが、それは自分たちの弁明が中心である、客観性に欠けているものもある――、戦前、戦時下の陸軍横暴への反撥のためだったのだ。小泉信三に匹敵するような知識人や有力者をシンパにもつことができなかったのは、それまでの軌跡がそのまま反映していると改めてわたしは知らされた。p.236

 海軍の歴史編纂も弁明で客観的なものではないと思うが。しかしまあ、海軍の方が外部から好意的に見られたのは確かだろうな。

 これは後藤田からの直話だが、彼は「旧軍関係者の作戦部門にかかわった参謀たちは本来なら戦犯に値するといっていい。今またGHQの力を借りて復活を図ることなど決して許さない」との強い怒りをもったと証言していた。海原治もわたしの取材には「旧軍幹部はプロとして戦争に負けたのである。その失敗の責任者はもう新しい舞台に出てこなくていい」との感想をもっていたと話していた。
 さらに、後藤田が「警察予備隊はわれわれ内務省の手で、という使命感はあった。でなければ何も好き好んであんなところにはいかなかった」と話していたのが今も印象に残っている。p.272

 内務省の官僚にキレられていた陸軍。まあ、作戦畑はアレすぎるしな。

 「この点は重要なのですが、いかなることがあっても日本はオーバーシー用の武器はもたない、装備はしないというのが主眼だったのです。足の長い、つまり外国に出て行けるような装備はしないということでした。部隊そのものが外国に出て行けない、しかも隊員にもそのような教育はしない、という方針でやっていたわけだ。そんなことを意図して、僕は後方部門は削ってしまった。オーバーシーの危険があるものは不要ということに徹しきった」
 後藤田のこの証言は貴重なのだが、旧内務省の官僚たちは警察予備隊をなるべく旧軍には近づけないように配慮していたことは史実として記録されていい。すでに明らかになっているが、旧内務省の官僚で警察予備隊にかかわった人物、たとえば初代人事局長だった加藤陽三などは、「私たちは、なんとしても旧軍人を予備隊に採りたくなかった」と証言しているし、「私たちは旧帝国陸海軍のようなものではない」軍事機構をつくろうと思っていたとくり返し語っていた。p.282

 官僚の権益争いを割り引いたとしても、ずいぶん嫌われたもんだな。警察予備隊-保安隊-自衛隊は、官僚の側からも相当警戒されていたわけだ。旧軍人の一部の胡散臭い活動を考えると仕方ないし、田母神なんかにみられる自衛隊で伝承されている旧軍正当化の歴史観を見ると、その危惧は外れていなかったのだろうな。

 その次田は、幣原内閣では司法大臣だった岩田宙造とともに密かに「戦争責任者裁判に関する緊急勅令案」をまとめている。ポツダム宣言を受諾した以上、その第十項にある戦争犯罪人裁判がGHQ連合軍総司令部)の主導で行われるので、事前に日本側で裁判を行って実質的に連合国の戦犯裁判が「一事不再理」の原則で行われないようにしようと考えたのだ。
 そのために勅令案をつくり、昭和天皇の諒解を得てすぐに戦犯自主裁判を行おうと画策した。その勅令案は「昨日までの臣下の者を、今日は裁くということはできない」との考えを天皇が漏らしたために、陽の目を見ることはなかった。
 わたしが驚かされたのは、この勅令案の条文なのである。その第一条には「明治天皇ノ勅諭ニ背キテ、軍閥政治ヲ招来シ、朋党比周以テ之ニ與ミシ 情ヲ識リテ之ヲ助長支援シ 以テ満州事変 支那事変又ハ大東亜戦争ヲ挑発誘導シ 内外諸国民ノ生命財産ヲ破壊シ且国体ヲ危殆ニ陥ラシメタル者」とあり、第二条では「死刑又ハ無期謹慎ニ処ス」と謳っている。つまり軍事指導者は死刑に処するという内容であった。
 わたしはこれらの条文にふれたときに、内務官僚をはじめ官僚たちの怒りがこれほど深いのか、と改めて驚きをもった。次田に代表される官僚たちは、陸海軍の軍人を決して許していないということをこれらの条文は示している。これまで紹介してきたように警察予備隊から保安隊へ、そしてやがて自衛隊にと変わっていく軍事組織の中に決して旧軍の主導部にいた者を入れるなという内務省出身の官僚たちの決意は変わらなかった。p.290

 官僚切れすぎワラタ。しかしこれが日の目を見ていれば、戦後日本はもっと風通しが良かったかもな。まあ、裁判が終わった後に、じゃあ昭和天皇も退位なとかGHQが言いそうだけど。
 あと、この軍への反発が自衛隊の独特の「シビリアンコントロール」のもととなったのだろうな。

 これも鈴木俊一の証言だが「立法技術上」の問題として、外国ではチャーターといって「市ごとにそれぞれ制度」を作るのだという。ところが日本では「種類別に、市制、町村制、府県制、北海道は北海道会法、北海道地方費法、東京は東京都制、こういうふうにそれぞれ別々に作ってきた」といい、日本はチャーターではなく、グループごとにひとつの法律でまとめてきたというのだ。立法そのものが一定のグループをまとめる形でできあがっているから、数多くの法律の条文の部分をいずれも直さなければならなくなる。p.292

 地方制度の話。このチャーターというのは、中世の都市法を定めた特許状に起源するのだろうか。実際、個別の自治体ごとに制度を作るというのは、地方自治の精神に照らして正しいやり方だと思う。このあたりの欧米の地方制度を調べる参考文献は何があるのだろうか。