永幡嘉之『巨大津波は生態系をどう変えたか:生きものたちの東日本大震災』

巨大津波は生態系をどう変えたか―生きものたちの東日本大震災 (ブルーバックス)

巨大津波は生態系をどう変えたか―生きものたちの東日本大震災 (ブルーバックス)

 湿地や砂浜の昆虫類を中心に、東日本大震災による津波被災地域の生物相の変化を追った本。著者は、自然写真家。
 津波被害といっても、他から入ってくれば元に戻るだろうと本書を読む前は思っていた。しかし、湿地にしろ、砂浜にしろ、戦後の開発によって寸断され、新たな環境に適応できない種は生息地が分断、縮小していた。そのなかで、津波で生息地が破壊、外部からの新たな個体の導入ができず、地域群が絶滅する可能性が高い種が多数あるという。ポイントとしての生息地の保護は、長期的な種の保存にはあまり意味がないこと、連続的な生息地の確保が必要と指摘されている。実際に現地を1年歩きまわった、現場感がすごい。
 水田の開発で後背湿地が減少、さらに数少ない残された湿地も、津波地殻変動によって、塩害をうけ、塩分濃度に敏感なトンボなどが生息できない状況になっていること。塩害を受けた土地における樹木の枯死のパターン、大規模に生息環境が撹乱された結果特定種が大発生する状況など、震災後丁寧に観察した結果が示される。
 そう言えば、有明海は遠浅のせいか干拓がすすんで、熊本平野の沿岸には砂州も後背湿地も見当たらないんだよな。しいて言えば、緑川の河流がその痕跡か。後背湿地がわずかなりとも残っていること自体がうらやましい。北海道の東岸で潟湖をみたときには感動した。


 以下、メモ:

 もし本来の湿地が手つかずのまま残っていた時代であれば、東日本大震災津波も隅々までは到達しなかった可能性が高い。震災後に話題にのぼるようになった、約1100年前といわれる貞観地震の際には、水田はまだ限られた範囲にしか広がっていなかったと考えられるから、被害を受けない湿地も残ったことだろう。水田化によって湿地の大半が失われていた結果、湿地の名残である池が海岸に孤立して小さな島のように残るのみとなり、隅々まで津波をかぶった。
 津波はあくまでも自然災害だ。しかし、狭められて最後に残っていた湿地が津波を受け、消失するという状況をつくりあげたのは人間であることも、また確かなことだ。日本の国土では、自然環境そのものの細分化が進んでいる。生物多様性の観点からいえば、過去に湿地を渡り歩きながら生存してきた生きものが、震災以前からすでに、渡り歩く能力を発揮できないほどに追いやられていたことを忘れてはならない。p.21

 細々と残っていたトンボに、塩分の害がとどめを刺して地域的な絶滅に追い込む。それは決して津波、あるいは塩分によって絶滅したのではない。かつては一帯に広がっていたはずの生息地を人間が細切れにしてしまったことで、1度の津波によっても地域から絶滅する種になってしまったのだ。p.77-80

 人災としての地域群の絶滅。で、現在はコメ余りという状況なのが皮肉だな。

 5月6日の夕方、調査の帰途に立ち寄った岩手県大船渡市の海岸は、真っ黒な重油に覆われていた、これだけ多くの課題が社会に山積しているときに、いったいどうすれば重油の除去にまで手が回るのだろうかと、途方に暮れる思いで眺めていた。油分は分解が遅いため、長期にわたって影響を及ぼすだろう。大船渡市のほかにも、各地で重油は海岸を覆っていた。油の流出は大小さまざまな規模で生じていて、その日の午前中にも陸前高田市広田町で、家具から流出した灯油が水田に流れ出しているのを見てきたばかりだ(66ページ写真)。p.62

 本書では陸上生物相にフォーカスしているために、油が洗い流された結果、生態系への影響は軽微だったとしているが、海中の生物相にはどういう影響を与えるのだろうか。水の動きが鈍い内湾なんかは特に影響が大きそうだが。

 ヒヌマイトトンボといえば、公共事業の際に配慮して、生息地を残すことがしばしば試みられてきた種類だ。しかし今回の津波からわれわれが教訓として学びとらねばならないことは、厳しい言い方をすれば、ごく狭い生息地を「保全地区」として残したとしても、決して長期的な存続にはつながらない、という事実だ。大きな自然災害の際には、広い面積が維持されていてこそ初めて、どこかで生き残る「偶然」も、生き残った個体が再び増える場所も生まれ、イトトンボが渡り歩くことが可能になる。もともと海岸や河口の生きものは、そうした渡り歩きの能力を身につけることで繁栄してきたのだ。細切れになった土地では、個体が生存する確率もごく低いものになるうえに、たとえ生き残っても、渡り歩くべき新たなヨシ原もない。
 近年になって、開発の際にトンボ類の「保全池」を作ったり、「ミチゲーション」と呼ばれる代償生息地づくりを進めたりすることで、本来の生息地を破壊しながら事業が進められる例も見られるようになったが、今回のような大規模な災害の前では、そうした小手先の対策は意味をなさないことが重い事実として横たわる。生物多様性を守ることに社会がどのように向き合うかを、根本から見直す機会にしなければ、消え去った多くの生きものたちが浮かばれない。
 だが、残念ながら反省の矛先は原子力行政ばかりに向けられ、生きものについては生き残ったかどうかの確認さえも行われないまま、復旧のための土木工事が進んでゆく。p.149-152

 帯としての生息域の必要性とアセスメント抜きの土木工事の問題。高地移転なんかも、そういう問題があるな。

 残った砂浜では、堤防の建設が急速に進められている。今後のためにやむをえないことではあっても、それに伴って、わずかに残った植物群落が埋め立てられる例が続いている。左ページ写真の矢印部分は7月18日に数種類の重要な海浜性昆虫やコアジサシを確認できた場所なのだが、8月16日には仮堤防となって消失していた。これまではこのような際の影響を最小限に抑えるために、環境アセスメントというしくみが社会のなかでつくられてきたが、今回の震災では、直後からその免除が相次いでいる。
 なお、こうした問題には地元の県の自然環境担当者が取り組むべきだ、という意見を口にする行政関係者や研究者が、東京でも山形でも少なからずいたことは、被災地とそれ以外の地域との「温度差」をよく表している。
 福島県の県職員は夏を迎える時期になっても、瓦礫撤去や避難所での当直などで平常業務ができる状況になかったと伝え聞いている。週に1度、自分の机に積み上げられた書類に目を通して押印すれば、また支援先に向かう日々が続いたという。環境のことにまではとても手が回らなかったはずなのだが、そうしたなかでも従来の取り決めを守る努力がなされ、砂浜の瓦礫撤去や堤防修復の際には県内の有識者への聞き取りを行うことで、希少種への配慮がなされていた。
 人によって置かれた状況はさまざまなので言葉を選ぶ必要はあるが、生態系への配慮が機能しなかったのは、むしろ被災地以外で行われた協議の場であり、「被災地への配慮」という言葉の濫用のもと、本来なら土木事業に必要な議論がいくつも停止した。だが、復旧事業にあたって、残された自然環境を震災後に引き継ぐことは、長期的に見ればこれからもその土地で暮らし続ける人々のために必要なことのはず。被災地以外の行政官ならば、議論を尽くすという手続きを踏む時間はもてたはずだ。「手続きを省くことが、被災地のためにいまできる努力だ」という勘違いが広がっていたきらいがある。
 被災地の行政であればこそ、非常時にあっても、環境への配慮のための対応がきちんと行われていたことは、重ねて指摘しておきたい。p.176-8

 環境への配慮が、「非常時」の名のもとにスキップされてしまった状況。一方で、現場では、それを守る努力が行われていたという。