藤崎八旙宮裏手の石碑

 藤崎宮の拝殿から裏手に回り込むと、摂社末社と細川忠利代の石灯籠、石碑が散在する。肥後国内でも由緒のある神社だけに、いろいろと石碑が寄贈されている。いくつか、碑文を読むのに苦労するには除外して、今回は9基ほど。
 江戸時代の石灯籠は60本近くあるそうだが。こちらはとっても手が出ない。
 本殿の裏手は、以前は木々がうっそうと茂っていたが、今は河川改修に備えてか、伐り払われている。あと、昨年の夏から秋にかけては、水害の影響で立ち入りできなかったが、年が明けてから行ってみたら、さすがに入れるようになっていた。


「日田社九百年祭礼記念碑」

 平安時代の人、日田永季を相撲の神様として祀っている。子孫の人々によって、祭祀が続けられているそうな。



日田社九百年祭礼記念碑
 日田社の祭神は豊後(大分県)日田一帯の大領・郡司であった
日田永季公を主神とし、先代遠祖も合祀されている。日田永季公
平安時代後三条天皇天覧の宮中行事である相撲節会の試合に十
六歳で初出場し、優勝戦で天下無敵の強豪出雲の小冠者を倒し、
天皇から日本一の称号とその雄姿をかたどった「鬼○(すはま)」
の家紋を下賜される栄誉に輝いた。爾来、四十九歳の生涯中十五
回召された天覧相撲で連続全優勝を果たして天下に勇名を馳せ、
後世まで「相撲道の神様」として崇敬を集め、また領民からは
「日田どん」として広く敬愛された逸材であった。
 その偉業は爾後九百年にわたる数々の激動・争乱の歴史の変遷
の中にあっても、真・善・美を求める「清澄の士魂」として脈々
と受け継がれて今日に至っている。
 これから国際化、IT・ハイテク化、少子高齢化等大きく変動
する社会環境や、多様化する価値観の変化の中にあって日本精神
文化の粋となる「鬼すはまの精神」を心の支えとして末永く次世
代へ語り伝えていきたいと念願し、九百年祭礼に当りこの碑を建
立する次第である。
         平成十六年十月五日
                    発起人
                    親族有志 一同


「御大典記念 藤崎八幡宮射場建設芳名」碑

 物陰にひっそりと建っている石碑。なんか傾いてます。昭和4年に射場を寄贈した記念らしいが、今はないようだ。例によって、寄付者名は略。



台座

弓道
 同好会建之


一金壹百五十円也
 弓道同好会


石碑裏面

昭和四年六月九日


藤崎宮復興碑

 どういう性格の碑か、ちょっと考えてしまう。基本的には祭礼の復興を祝う石碑ということでいいのだろうか。日清戦争直前だが、海外進出とか、国威発揚みたいな感覚が表明されているのも興味深い。これより後だが、閔妃殺害に熊本出身の大陸浪人が複数関わっていたなんて言うのとも繋がるのかね。
 しかし、神社を追い出して陸軍用地にしちゃうとか、国家神道と矛盾しなかったのかね。



恭く惟るに 八旙宮は往古より外冠鎮護の神と崇め祀る承平年間平将門
討の勅願により城州石清水の別宮を当国宮内庄に勧請せらる所謂九州五社
の一にて 歴朝の崇敬厚く大祭には勅使下向造営毎に勅宣に出つ加藤細川
両候の代は祭祀最も盛なり明治十年殿宇兵火に罹り社地陸軍の所属となる
是に於て当所に遷宮せらる神幸書式稍衰微せしを有志者亦其間に謀る所あ
り廿三年の大祭より皆旧に復せり抑も 当宮神威赫々霊験殊に新なるは旧
史に徴して明なり今後年を逐ふて繁栄ましまし各師団の武威益振ひ各県の治
蹟愈挙り瑞穂国の光海外に発揚し国家無窮の恭平を謹て祈り奉ると云爾
  明治廿五年十二月吉晨         古賀大栄  敬白
                     古賀富次郎 代撰


砲弾

 28センチ砲あたりの砲弾かね。直径を測っておけばよかった。明治29年奉納だから、日清戦争を記念してということなのだろう。寄贈者の永田亀中佐は、この後、北清事変、日露戦争にも従事し、少将まで昇進している→http://bujinkensyokai.web.fc2.com/kumamotog.html



台座裏面

陸軍砲兵中佐
正六位勲六等功四級
熊本県士族
     永田 亀


明治廿九年九月


「報賽」碑

 日清戦争に従軍した部隊が、加護のお礼に奉納した石碑ということのようだ。歩兵第23連隊の第8中隊が共同で奉納した模様。威海衛なら、一人も死傷者を出さずに済んだ部隊もあるだろうな。全軍で死傷者250人以上か。

報賽


明治廿七八年之役我中隊臨発○
社肯祈戦捷而戦於清国威海衛我
隊無一人之死傷役了凱旋之日建
此碑以表 神威之霊験
明治廿九年十月
 歩兵第廿三連隊第八中隊従軍将校以下一同寄附


行幸記念」碑

 昭和6年だから、陸軍特別大演習の時のものだろう。奉納者は長崎市長も歴任しているらしい。


 為奉賽熊本県警察部長
行幸記念 青木善祐
 昭和六年十一月十八日


燈籠銘板碑

 1998年頃に参道の石灯籠を建て替える際に、元の石灯籠の銘板を集めて記念碑に仕立てたものだそうだ。「大洋デパート」の名前があるあたりが時代を感じる。



右側面

参道燈籠を新たに建立するに当り
  従来の燈籠銘板をここに
   記念碑として建立す
       平成十年九月吉日


後藤是山句碑

 さっぱり読めなかったが、藤崎宮のサイトに紹介されていたのでそちらを引き写し。こういう散らし書きみたいなのは、どう書いたらいいか困る。



石碑表面

初茜
 神話の
 阿蘇
  東
   に
  是山(印)



石碑裏面

昭和四十八年五月十三日建立
 東火社有志一同


「藤崎台出土経石埋納碑」

 藤崎台の旧社地から出土した経石を埋納した旨を記す。しかし、これ良かったのかねえ…


昭和三十五年三月 藤崎台県営野球場
設に際し 旧藤崎宮経蔵址より出土した
一石一字の経石一万二千三百九十六個及
び甕片を移転埋納した
台石は本殿址の礎石である
 昭和三十六年三月五日
     熊本県教育委員会