「江戸」の発見と商品化―大正期における三越の流行創出と消費文化 (歴博フォーラム民俗展示の新構築)
- 作者: 国立歴史民俗博物館,岩淵令治
- 出版社/メーカー: 岩田書院
- 発売日: 2014/05
- メディア: 単行本
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「流行」を作ることはどういうことかとか、消費イベントの創出といった観点で、おもしろい。戦後は、クリスマス、バレンタイン、ハロウィンといったヨーロッパの民俗行事が消費イベントとして利用されるが、大正期あたりだと、七五三や節句といった旧来の行事を消費イベントとして仕立て上げていたんだな。現在でも恵方巻きみたいな、民俗行事に根ざした消費拡大策は存在するけど。
近代の、現在につながる消費の姿が現われてくる時代はおもしろい。
神野由紀「消費社会黎明期における百貨店の役割:三越の商品開発と流行の近代化」
三越が需要を喚起するため、歴史的な伝統を利用したイベントを利用した姿を描く。江戸趣味の文人を集めて「流行会」という研究組織を立ち上げたり、「愛情とお金をかけて子供を育てる」という近代的な子供観を前面に押し出し、人生の節目の贈り物用のセットを開発したり、消費イベントを作り出したり。東京へと流入した新中間層の趣味人への憧れを、消費拡大に利用したと。
満薗勇「三越による通信販売と地方資産家の流行需要」
こちらは、三越の通販とそれを購入した資産家として長野県須坂の豪商田中本家の史料を利用した購買行動の復元。しかしまあ、この田中本家、まめに書簡を残していたな。それだけの空間的余裕があったってことなんだろうけど。
初期の通販は、カタログ販売ではなく、大まかな商品の種類と価格で注文を出し、具体的な商品選定を、店側に委ねる方式であったこと。店側は地方色に合わせた商品選択を行っていたが、客側にとっては都会の流行品が届いているのか不安に思う、すれ違いがあったと。
田中本家宛の通販関係の書簡360通ほどを分析しているのが興味深い。三越から発信された書簡が73通とかなり多いが、一方で長野市や地元須坂の商店からの購入品もかなりあること。最高級品は三越など東京の百貨店から買っていたが、それ以外は地元近くの商店から購入を行っていたこと。三越からの書簡を見ると、品切れや返品が多く、どうしても三越でないと手に入らないもの意外は、地元から買ったほうが楽であった状況が明らかになる。
瀬崎圭二「三越の流行創出と近代文学」
後半二本は、各論として、個別の文化がどのように三越のマーケティングと関わったか。最初は文学。三越が発行するPR誌に、商品を入れた小説が掲載される時期、その後、「三越」の名を前面に出し三越自身をブランド化していく過程。
最後に、文学に見る東京に移住してきた青年たちの江戸文化への憧れる姿。
玉蟲敏子「三越における光琳戦略の意味:美術史の文脈から」
こちらは尾形光琳の美術の再評価と三越の関係。ヨーロッパで光琳が発見再評価され、日本に逆輸入される状況。光琳の美術は、むしろバタ臭い雰囲気をまとっていて、新しい商品の開発に最適だった。また、「琳派」といっても、かなり大雑把なものだったこと。
一方で、大量の光琳関係の美術品を集めた展覧会を開いたり、光琳研究の促進にも影響を与えたという。マーケティングと文化の相互作用。
以下、メモ:
三越呉服店で、この流行会と同時期に精力的な活動を展開していたのが、明治四二(一九〇九)年に発足した児童用品研究会です。百貨店となった三越では、呉服以外の新たな市場開拓に積極的に取り組み、なかでも子ども用品部門は店内で毎年、児童博覧会を大々的に展開するなど、特に力を注いだ分野でした。これには当時の中間層の中に近代的な子ども観を受容しやすい土壌があり、「愛情とお金をかけて子どもを大切に育てるべき」と考える家庭が出現していたことが背景にあります。当時の婦人雑誌などでも、子どもは大人とは異なる独自の存在として、その性質を科学的に分析し、それに見合う生活環境が提唱されるようになっていました。このような子どもの教育に熱心な親たちは、まさしく当時百貨店が大量販売のため顧客に取り込もうとした消費者でした。p.15
消費社会は子供をだしにすると。この時代に、いろいろな人間観が変わっていったんだろうな。このあたり、『戦下のレシピ』につながりそうだな。
新しく創られたイベントだけでなく、伝統的な習俗を利用した消費イベントも盛んに用いられました。七五三や雛祭り、端午の節句といった習慣は、五節句の廃止(明治六年)などにより一時衰退していましたが、これを新たに子どものための消費イベントとして「発見」し、復活させたのが百貨店であったことは、これまであまり知られていません。p.22
うーむ。そういえば、ああいうのも、何か買わなければいけないイベントにはなっているな。昔七五三、今ハロウィン。
この百貨店化のプロセスが容易でなかったことは、各百貨店の社史に書かれています。デパートメントストア宣言では、百貨店として取扱商品の種類を増大し、衣服装飾に関する品目はできる限り取り扱うようにすることが記載されています。百貨店になるためには、呉服中心であった呉服店の取扱商品を拡大し、百貨を扱う店にする必要があったのです。たとえば、高島屋では、貿易店を通じて商品を英国の会社に注文していました、大人のシャツはよかったのですが、靴下は外国人の大きな足用の靴下ばかりが輸入されたため、日本人の体格に合わず、売れ残っていました。そのため、売れなかった商品や使えない海外の陳列棚が売場の隅に置かれ、担当者は困惑していました。そんな時、店が火事にあい、それらの不良在庫がすべて焼けてしまったのです。火事は当然のことながら非常に残念なことなのですが、仕入担当者はこれで自分が抱える懸案事項の一つが解決したような気がした、と後年の座談会で心情を吐露しています(大阪高島屋 一九三七 一八六‐一八七頁)。p.50
うーむ。ローカライズは大変だったと。そりゃ、仕入担当のストレスはマッハだったろうな。こういう事情で、国産代替が推進されたと。
最後に、女性はもともとデパートに来なかったということですが、以前私が論文の執筆にあたって調べましたところ、戦前期の百貨店の一階の売り場では、基本的に女性ものを扱っておらず、全部紳士物なのです。ポスターも、明治の末から大正の初めの美人画として消費者の女性は描かれるのですが、必ず部屋でカタログを見ている女性が描かれているのですね。それが昭和に入るころから百貨店に行っている、ちょうど足を向けている女性が描かれるようになっていく。こういったところがもともとの疑問の発端だったのですが、当時の回顧記録、三越の社員の方のヒアリング、それから今和次郎の、男性と女性の実際に銀座を訪れた率といった調査などを踏まえますと、やはりかなり実際に百貨店という場に足を運んだのは男性であった、ということが分かってくるのです。住宅が、女性は戸締りをしっかりしなければいけない、簡単には外出できない、といった構造をとったのと表裏の関係です。それが戦後に団地などが出てくると、鍵一つで施錠すれば簡単に外出できる。今ですと当たり前のことが、その当時にはなかったのです。それと、やはり女性が生活必需品以外のものを浪費しにふらふらと外に出るのは道徳的によろしくないという周りの目もありました。
ですから、実際には小説に描かれていたり語られていたり、モダンガールとして写真に撮られて記録されていたよりも、消費者として女性が百貨店などに足を向けるということが少なかったのではないか、ということを以前発表させていただきました。これが変わっていくのは、ヒアリングや一階の売場の変化などを見ても、戦後なのですね。家の形態が変わっていくのもそうですし、女性が社会進出していくのもそうですし、昭和三十年代から大きく変わっていったと言われています。p.122-3
ここで言われている「女性」は、百貨店が対象とした中間層以上の階層の女性のことなんだろうけど。モビリティが限られていたと。そういうものだったのか。
今では、デパートの一階の売場は基本女性向けって感じだけど。