佐藤賢一『カペー朝:フランス王朝史1』

カペー朝―フランス王朝史1 (講談社現代新書)

カペー朝―フランス王朝史1 (講談社現代新書)

 中世半ば、10世紀末から14世紀前半にかけて、カロリング朝から王権を奪取し、後のフランス王国の基礎を固めたカペー朝の歴史を、各王ごとに紹介する。パリ近辺に勢力を持つ弱小両方君主が、フランス最強の領邦君主に成長するまでの歴史。
 カペー家の先祖、「強者」ロベールは、ロワール川流域でノルマン人の侵入を撃退するなど武功も大きく、カロリング家と王位を争うほどの権勢を持った。ユーグ・カペーの父大ユーグは、王位から一歩引き、実権を握り王位や国政を左右する立場を確保していた。しかし、後を継いだユーグ・カペーは、求心力が乏しく、配下勢力の離反を招く。結果として、初代のユーグ・カペーから四代にわたって、フランス王とは名ばかりの弱小領邦君主が、自己の勢力圏の安定をめぐって汲々とする時代が続く。2代、4代と女性問題で混乱する状況もおもしろい。16世紀あたりだと、離婚が国際問題になっていたりするが、この時代はわりと女性関係がフリーダムなんだな。
 それでも、フィリップ1世の時代には、宮廷の官職を整備し、勢力圏内の城主貴族層を王家と結びつけるなど、次代の飛躍の元をつくっていく。ルイ6世時代には、勢力圏内の貴族層の統制、騎士層の登用、パリに常設機関の設置など、12世紀序盤の時代の流れに即した内政の整備が行なわれる。この時代になると、有力諸侯の一角として、広範囲に一定の影響力を及ぼすことができるようになってくる。
 しかし、ルイ6世の子、ルイ7世の時代には、アキテーヌ公家の後継者エレアノール・ダキテールとイングランド王兼アンジュー伯、ノルマンディー公であるアンリ・ド・プランタジュネの結婚によって、「アンジュー帝国」と呼ばれるブリテン島、そしてフランスの西半を押さえる巨大勢力が出現。その後、カペー朝は、プランタジネット家との戦いの連続となる。しかし、プランタジネット家といい、その王であるリチャード獅子心王やジョン欠地王といった人々も、フランス語表記されると新鮮だな。なんというか、イギリス中心的な史観に支配されているかを、改めて自覚するというか。
 フィリップ・オーギュストの時代になると、イングランド王リチャード、ジャンとの戦いの中で、プランタジネット家の勢力圏を削り取り、王領を拡大、フランス全土に影響力をふるえるまでに拡大する。イングランド王との対決は、この時代までに、かなり決着がついていた感が強いな。むしろ、この時期の威勢からすると、その後ヴァロワ朝があんなに苦戦するのが信じがたい感が。
 この後は、アルビジョワ十字軍をはじめとした南仏への影響力強化の動き、フィリップ3世時代の地方管区制度や高等法院、フィリップ4世時代の法律学者の登用といった内政の強化も進む。


 しかし、驚くべきは、カペー朝が11代目のフィリップ4世まで、直系の実子に受け継がれ、しかも、その間、ルイ9世を除く王が10年以上、長ければ40年近い長い治世を全うしていること。この継承と治世の安定こそが、カペー朝の躍進の源泉だよなあ。継承問題で内紛が起これば、周辺勢力を味方につけるために大きな譲歩を余儀なくされただろうし。たいがいの有力諸侯はこの種の継承問題で、領邦の自立の目をつまれたんじゃなかろうか。最終的に、フィリップ4世の子供の世代が、実子なく次々と死に、従兄弟のヴァロワ伯フィリップが王位につくことになる。この段階でも、比較的近い係累に引き継がれている。
 一方で、最後のまとめで指摘されるように、カペー朝の拡大は、巨大な諸侯領を構築したにとどまり、「国王」として「公」を担う状況にはなっていない。それは、次のヴァロワ朝百年戦争を経て、やっと克服する課題になる。
 しかし、王様なのに、なんというか本当に下克上感が強いな。諸侯の中でも弱体だった勢力が、最終的にフランス中に王領を確保することになる。