- 作者: 武部 健一
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2015/05/22
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (9件) を見る
古代・中世・近世・近代・現代と時代を分けて記述されるが、上記のような性格から、国家直轄の道路について記述されるのみ。国家が分散化した中世、道路よりも鉄道や港湾に主軸を置いた明治期については、30ページ強と比較的少なくなる。新書というパッケージの限界からしかたない部分もあるが、どうも、偏りが気になる。一方で、現代=戦後の高速道路建設に関しては自身の経験から、かなりの紙幅が割かれている。基本的には、「人が歩く」道に関心がないんだろうな。
あと、個人的には馬を使った駅路の連絡速度があまり速くない印象が。まあ、途中全力疾走できるものでもないんだろうな。
以下、メモ:
このことがきっかけで、私はその後、道路の歴史を勉強するようになった。高速道路と古代駅路、これはいずれも国家の産物であり、国がしっかりしている時代は、道路網もまた強固であることを見てきた。p.�睨
日本の道路史のなかでもっとも特徴的で、かつ世界に誇るに足ることは、古代の律令制が確立した奈良時代を中心に、全国に七道駅路という道路運用の制度を備えた道路網を持ったことである。p.23-4
すでに、ここで趣味が合わない感じが。そもそも、後世の交通に影響を残していない時点で、評価は低くなると思うが。島嶼国家で、大陸国家のような道路を作ろうとした時点でアレ。
ただ、馳道の幅約七〇メートルといっても、中央部の三丈(約七メートル)は皇帝専用であり、皇帝の命じた使者たちですら、その部分を通ることを許されず、外側の側道部分を通れるだけだった。『中国公路史』によれば、馳道の建設には三つの目的があったという。第一は全国統一の戦略施設を強化して、征服した六国の貴族たちの復活を防ぐこと、第二は六国の財宝を秦の首都咸陽に輸送すること、第三は阿房宮や驪山など七〇〇ヵ所あまりの宮殿の建設に必要な資材を運搬するためであった。『中国公路史』は、始皇帝の事跡には否定的である。つまり、馳道の目的を少なからず皇帝自身の私欲充足のためとしている。事実、秦帝国そのものの存在が短かった。始皇帝自身が紀元前二一〇年に、馳道による何度目かの全国巡遊の途中で病死し、その遺体は喪を秘したまま、おんりょう車という格子窓のある一種の空調車に載せられて、馳道から直道を回って首都咸陽に戻った。その後数年にして、秦帝国は瓦解した。わずか四〇年の帝国であった。p.6-7
「私欲充足」のためどころか、これこそが一代で急膨張した帝国を支えるインフラそのものだと思うが。古代日本の駅路を褒めるなら、こっちも褒めるべきだと思うけど。各地に直轄領の宮殿を配置、自身が直接回ることでしか、国家を維持できなかった。道路が国そのものといっても良い。