「甲乙閑話:元祖、文化で街おこし」『朝日新聞』13/3/12

 日光に蓄積された工芸の技術を使って、町おこしをしようと考えた人か。「日光ブランド」というのは、一つのアイデアだなあ。ただ、この時代、工芸品を外貨獲得の手段にしようとした国全体の動きの中に位置づけないと、よく分からないことになりそう。あとは、観光地としての日光の変遷とか。


NIKKO幻の高級工芸/明治〜大正地域を振興 地域 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

 明治時代の日光に、現代のアートプロデューサーの先駆けともいえる人物がいた。栃木県壬生町出身の守田兵蔵(1844〜1925)。多彩な活動は必ずしも成功せず、知る人も少ないが、時代の転換期に文化と産業を両輪として地域おこしに奮闘した軌跡は、現代に通じる魅力を放つ。
 維新後、武士から鉱山技師に転じ、地元に戻って銀行や建設業など様々な事業を手がけた守田は、特に「日光ブランド」の美術工芸品の創設に力を入れた。当時は殖産興業の下、欧米のジャポニスム人気を背景に、美術工芸品は主要な輸出品の一つ。東照宮をいただく「徳川の聖地」日光には、新時代の新しい産業が求められてもいた。
 守田は各地の職人や画家を集め、自宅に工房兼陳列場の「鐘美館」を開設。まず外国人の避暑客向けに、絵画や漆工芸品、やきものを並べた。産業化に向けて鉱山時代に築いた人脈を生かし、壮麗な「美術館」も建て、本格的な活動を志向したようだ。
 だが経営難に陥り、戦前には美術館も解体され、忘れられた存在に。壬生町立歴史民俗資料館の調査で今回、初めて全容がみえてきた。文化の力で地域を見つめ直し、もり立てる姿勢は、現在、瀬戸内や新潟、別府など各地で盛んな芸術祭にも通じ。「パイオニアとしての守田が浮かび上がる」と中野正人・同館学芸係長。成果は20日までの展覧会で公開している。(小川雪)