石渡幹夫『日本の防災、世界の災害:日本の経験と知恵を世界の防災に生かす』

 海外での援助活動を行っている著者による、どのような災害援助が望ましいかという話。「災害とは何か」の入門書としても、適しているのではなかろうか。あと、防災ってのは、社会福祉、貧困対策と接続するもの。で、貧困化が進みつつある日本は、これから災害弱者の被害が悪化するだろうし、そこで海外を何とかできるのかという気分になる。
 あと、こういうのを読むと、やはり常設の組織が必要だよなあ。地方自治体単位では、災害の経験値が貯まらない。物資の供給や避難所運営、緊急対策のプロを揃える。あと、復興事務の専門家をプールしておくという点でも重要なのではなかろうか。東日本大震災熊本地震を見ると、平時の所要で準備されている人員では、災害時の事務量に対応できない。近年の災害の頻度を見ると、毎年か、一年おきくらいの頻度で出番ありそうだし。


 第1章は近年の大規模災害に、それぞれの国がどのように対応しているかの話。M9級の地震津波に対して、日本の被害率の半分で乗り切っているチリ。まあ、この場合、沿岸部が未利用という話なのだろうけど。あるいは、ベトナムの台風に対するコミュニティ単位の防災活動、スリランカの開発に伴う土砂災害への脆弱化とその対策。
 そして、21世紀災害史の幕開けを飾ったインド洋大津波の支援。これが、近年の災害緊急援助の雛形となっていると。あるいは、ハード面の回復と同時に、いまだに個々の被災者の生活再建は途上と。このあたりは、日本と同じ状況だな。阪神大震災の傷でさえ、回復できていないわけだし。
 あと、印象的なのは、ダムの放流を下流に通報する仕組みができていないということ。発展途上国では、下流のことを考えずに放流するのが基本なのか。


 第2章は、被災の格差の話。災害は、弱いものを容赦なく襲う。
 被害額はアメリカや日本の災害が圧倒的に大きいが、死者の数は途上国で起きた災害の方が圧倒的に多い。東日本大震災でも、途上国であれば、何倍もの大きさになりうると。また、同じ国の中でも、貧困層や弱い人が集中的に被害を受ける。
 さらに、絶対額は小さいが、途上国や貧困層では、そのダメージの大きさは致命的。ハイチやグラナダのような貧困な国家では、一度の巨大災害の被害が一年のGDPを超えることがある。貧困層の被害額は少ないが、なけなしの財産が失われる。生計に占める重要度がより高く、ダメージはより大きくなる。さらに、生活再建のための支援も少ない
 都市化にともなって、危険地域での居住が拡大し、被害のポテンシャルは大きくなっているという指摘も、


 第3章は、ハードウェアの対策か、ソフトウェアの対策か。
 ハードウェアに投資して被害を軽減した日本。逆に、ハードの対策はほとんど進んでいないが、コミュニティ単位で避難体制を整備し、高潮の被害を軽減しているバングラデシュの経験。二桁減らしたというのは大きいなあ。デルタ地帯で、人口圧が高いため、どうしても危険地域に人間が進出してしまうと。
 どちらも車の両輪。成熟社会と人口が急増している社会でも、処方箋が違うと。


 第4章は気候変動の問題。「定常性の死」によって、今後の雨量などの変化が予測不能になっていると。計画の根幹を揺るがす事態。増えるほうを考えてしまうが、雨量が減って、過大投資になってしまう危険性か。まあ、過大な分にはという気もしなくはないが。
 流域全域のマネジメントの必要性。


 第5章がメインといっていいのかな。途上国への防災技術移転。そもそも、事前に防災技術を援助するという発想が最近のものなのか。国際的な取り組みが行われるようになったのが21世紀に入ってから。で、そのような防災の援助としては、日本は大きな存在感と伝統を持つと。治水対策の援助は行われてきた。一方で、貧困対策やソフト面も含めた援助はまだまだと。
 コミュニティ防災の評価、防災教育の重要性。現地の材料、地元の人の実感に沿った援助の必要性か。
 まあ、日本でも防災教育はこれからといった感じがあるし、避難所からその後の保健衛生対策なんかは、まだまだという感じがあるが。


 最後は、東日本大震災の経験を海外にどうフィードバックするか。教訓を海外に伝えるのが、日本に対する援助のお礼となると。阪神大震災の教訓が、日本語だけで蓄積され、海外には伝えられていない。
 世界銀行の教訓集では、災害の投資は報われるが、想定以上の災害もありうる。起きた災害から学ぶ。課題としてはトップダウンの情報提供では足りない。各組織の調整の必要性。弱者への配慮。
 そして、社会の各分野に防災を組み込む「防災の主流化」の必要性。


 以下、メモ:

コミュニティが中心となって住宅を再建した。地域社会が中心となって住宅を再建することはコミュニティ主導手法と呼ばれ、効果が高い援助ができた。再建地の計画や家のデザインを住民が議論しながら決め、建築や資金の管理も住民グループが行う手法である。これにより、住民のニーズが取り入れられ、満足度も高くなっている。これに対して、援助機関主導もしくはトップダウンと呼ばれる手法で行われたものは、質が悪く住民が住まなかったり、地震に耐えられないような住宅も建設され、できた後にさらに修理するといった手間をかけていた例もあった。家そのものに注目が集まってしまったためか、排水溝や水道、道路の舗装、といった地味な支援は遅れていた。これでは、家はできても生活にはまだまだ不自由である。p.44

 インド洋大津波の援助の話。
 うーん、援助競争になってしまって、トップダウンでは粗悪なものができてしまった。あるいは、インフラの回復など地味なところが等閑視されたと。

彼ら、彼女らは与えられた条件の中で合理的な判断をしている。都市に住む貧しい人々には、様々な災難が待ち構えている。失業や収入減、洪水、地震、事故、火事、劣悪な衛生環境、伝染病等々、その中でどの災難を受けるのかを選ばなければならない。最も優先されるのは仕事の機会である。日雇いの仕事や単純労働などの仕事に就くには、町中の条件の厳しいところに住まざるを得ない。一日働いても数百円程度の日給では、郊外から数十円といえども公共機関の交通費を払う余裕はない。郊外に住んで収入が減り、食べ物に苦労する生活を送るよりも町中で家賃の安い地区に住み、たまにしか来ない洪水の危険を取る、という合理的な選択をしているのである。土地の所有権を持たない不法居住なのだが、家を建てた所有者は別にいて、家賃を払っている場合も珍しくない。中間で手間賃を取る貧困ビジネスである。p.61

 郊外に団地を作るとか、悪手なわけだ。雇用機会は都心にしかないと。

災害対策と開発のパラドックス アメリカのニューオーリンズを襲った二〇〇五年のハリケーンカトリーナ災害も同様に、開発や都市化が大被害につながった。アメリカ史上、最大の被害額となったこの災害の原因として、皮肉なパラドックスが指摘されている。危険だった地域で災害対策を取り、都市開発を進めることで、災害被害のポテンシャルを高めてしまったのである。連邦政府や市政府は、メキシコ湾沿いの沼地や湿地でたびたび洪水に襲われていた地域を、堤防を建設し数万人が住む都市へと四〇年にわたり開発してきた。ここをハリケーンは襲ったのである。堤防は造られていたのだが、高潮を防ぐことはできなかった。設計での想定より大きな洪水やハリケーンに襲われたためである。そして、堤防は維持管理が十分でなかったために巨大ハリケーンに耐えられず、倒壊してしまった。p.71-2

 防災対策が、逆に被害の規模を大きくしてしまったと。こういうの、日本でもたくさんあるよなあ。危険なところを開発してしまう。