9/8に県立美術館で行われた講演の紹介記事。基本的には、ガラシャ展図録の「明智光秀論」と同じ論旨なのかな。
なにやら、めちゃめちゃ聴衆が多くて、講堂からあふれたとか。私自身は、天気も悪いし、パスしたのだが。ある意味、正解だったかな。めちゃ混み講堂とか苦手で。
信長は、「最後の室町人」といった感じなのかな。
地域と向かい合って、領民との契約のもとに負担や軍役を定量化していた諸大名の統治。近世につながる姿が見え始めていた。それに対して、無制限に軍事力を要求する信長の姿勢は、時代遅れになっていた、と。
少なくとも、諸大名にとって、軍役負担が、限界を超えかけていたことは確か。その意味で、叛旗を翻すのは、他の大名でもありえただろう。しかし、京都で無防備な瞬間を狙うというのは、京都を地盤とする光秀にしかできなかった、と。
光秀は信長に仕える前から、交通の要衝だった琵琶湖西岸を活動拠点にしていたという。足利義昭を奉じて上洛した信長は光秀を京都代官として登用。稲葉教授は「信長は光秀の人的、経済的なネットワークに依存した。織田権力の樹立に不可欠な存在だった」という。
どういう論証をしたのかはわからないが、信長・光秀間のパワーバランスを逆転させた理解なのかな。信長が引き立てた側面だけではなく、京都周辺に隠然とした力を持っていたからこその重用。