「ビル下敷き 通行人が救った:日本橋の秘史明らかに」『熊日新聞』18/9/2

 関東大震災で、東京・日本橋の貿易商社「野沢組」のれんが造り5階建て本店ビルは1923年9月1日、一瞬にして倒壊、社員らが生き埋めとなった。日本橋一帯は同日夜、火災に見舞われ、地震に耐えた周辺の白木屋呉服店丸善などのビル群も焼け落ちた。
 このため野沢組本店ビルの下敷きとなった人たちは焼死したと思われていたが、通行人が協力して火災前に生存者を助け出していたことがわかった。
 同社が81年5月発行の「野澤組100年史」(非売品)で救出劇の一部始終を記述。配布先が社内と取引先だけだったため、災害史研究者にも知られていなかった。
 同書や関連資料によると、本店ビルは「小田原提灯を畳んだように崩れた。歩道を埋めて屋根が横になった」という。
 居合わせた写真は約60人。野沢八三郎総支配人ら9人が死亡した。無事だった大柴亀太郎支配人が、崩壊した本店ビル前に「中ニ数十人居マス 助ケテ下サイ」と救援を求める掲示板を出した。
 この掲示板を見た通行人20~30人が救出作業に加わり、火災前の午後5時ごろまでに生存者を救出し、9遺体を収容していた。
 閉店していた白木屋の門をたたいて遺骸を包む布を求め、事情を理解した店長が10反余の白布を無償で提供してくれた。近くの住友銀行から現金を下ろし、救出を手伝った人たちに謝礼を払ったが、固辞する人もいて社員は涙を流したという。
 野沢組本店の崩壊の様子は文学者も記録している。作家の佐多稲子氏は当時19歳で、丸善洋品部店員だった。戦後発表した「私の東京地図」に「筋向こうの野澤組の赤煉瓦の建物が、ざあっと前へくずれ落ちた。あっ、これが大地震なのだ、と私はその瞬間にはじめて、今の経験を見定めた」と書いている。

 うーん、これ、「誰が」、野沢組の生き埋めになった人たちが焼死したと「思っていた」のだろうか。日本橋だけに、有名な話だったのかな。会社では、当然、ほとんどの人が救出されたことを知っていただろうし。
 近隣の人々による救助の重要性がわかるエピソードでもあるな。
 しかし、ぺっしゃんこになった建物で、8割以上の人が生存していたってのも、すごい話だな。救出中の写真を見ると、1-2階は、完全にはつぶれず、空間がかなり残っていたのかな。