戸川点『平安時代の死刑:なぜ避けられたのか』

 繁田本で、平安時代に興味が出てきたので、以前から気になっていた本を読んでみる。
 平安時代の「死刑廃止」が実際にはどんなものだったかを検討した本。まあ、現在のヨーロッパ諸国が、抵抗した犯罪者を容赦なく射殺したり、IS関係者の処理を現地政府に任せているのと同じような感じだな。


 儒教的な徳治主義、仏教的な殺生禁断といった観点から、嵯峨天皇以前にも、死刑の停止があったこと。立春から秋分にかけては死刑の執行ができないことから、罪を減じる場合があったこと。
 嵯峨天皇も、死刑の停止は行ったが、条文上の改変などの「廃止」は行っていない。
 制度的な死刑の廃止は、10世紀、延喜年間あたりから刑部省が機能停止し、罪名の決定を行わなくなったあたりが画期ともされる。


 しかし、法執行の実態をみると、太政官による貴族層などの裁判、検非違使による京都近辺の裁判、各国司による任国の裁判、権門による構成員への制裁など、摂関期以降、裁判権が分立していく中で、死刑が避けられたのは、天皇の直接裁可を受ける太政官による裁判のみで会ったことが指摘される。
 さまざまな国司による死刑の執行、検非違使でも「荒別当」と呼ばれる厳しい処罰を行う別当が出ることもあり、肉体の切断など事実上の死刑も行われていた。また、私宅への襲撃などでは、自力救済で、犯罪者の殺害などが行われていた。また、権門や武士の私的制裁による殺害も行われる。王朝物語なんかは雅だけど、一つ皮むけばヒャッハーな世界で、死刑の廃止なんかできるわけないよねというのが、正直な感想。
 結局、死刑判決に伴う死の穢れを、貴族層が忌避しただけという。


 また、死刑の一つとして、国家に対する反乱者とされた者の追討と、その後の梟首も検討される。死刑の代わりとしての梟首。降伏者は梟首されない。すでに死んでいる犯罪者の死亡の周知といった意味がある。
 また、これらの首のさらし方の作法とか、その後、首は後で探せるように管理されていた状況。死穢の管理者としての検非違使というのも興味深い。検非違使や武士といった人々は、犯罪捜査や戦争と関わる故に畏れられたが、同時に死穢に関わるために賤視されたという。摂関や天皇は、梟首の首をみるのを避けたという。


 平安時代の死刑停止の画期となった藤原仲成の処刑が裁判というよりは戦闘状況での殺害的な色彩を持つこと。「死刑復活」の保元の乱でも、死刑の判決執行は、貴族社会からの反発を受けた。自分たちで死刑を行うことは、忌避された。鎌倉時代になると、犯罪者を鎌倉に送り、鎌倉幕府に任せるという形で、さらに、死刑への直面を避けるようになる。貴族社会が「死刑」への関わりを避けたのが、「死刑停止」の実態であると。


 文献メモ:
元木泰雄摂関家における私的制裁」『院政期政治史研究』思分閣出版、1996
上杉和彦「摂関期における拘禁処分をめぐって」『日本中世法体系成立史論』校倉書房、1996
前田禎彦「摂関期の闘乱・濫行事件」『日本史研究』433,1998
告井幸男「摂関期の騒擾事件と権門・検非違使」『摂関期貴族社会の研究』塙書房、2005
大村拓生「儀式路の変遷と都市空間」『中世京都首都論』吉川弘文館、2006
元木泰雄「京の変容」『古代文化』45-9,1993
盛幸夫「鎌倉時代の洛中警固に関する考察」『六波羅探題の研究』続群書類従完成会、2005