夫馬進『訟師の中国史:国家の鬼子と健訟』

 宋の時代から清朝まで、訴状の代筆を行って、政府から目の敵にされた「訟師」の歴史。
 中盤あたりから、集中力が切れて、読み進めずにけっこう時間がかかってしまった。4章から8章あたり、結局、使われる史料が政府の処罰文書か、地方官経験者がそのあるべき姿を説いた「官箴書」に限られてしまって、体制の矛盾を訟師に押し付ける姿が延々と描かれるだけになって、ちょっと飽きるというか。


 訟師とは、人々の訴状を代書する仕事をする人々。
 一方で、儒教の理念的には、裁判0を目指すイデオロギーがあった。徳によって教化して訴訟0の世界を目指す「無訟の理念」によって、原告と被告を補助する人間を認めない。また、皇帝は民の父母として、民の話を聞いて、手を差し伸べなければならないという「無冤の理念」があったが、最終的にはこちらも裁判を0を目指す。
 制度としては、地方の役所衙門の運営に、裁判に関わる手数料/賄賂が欠かせない一方、「無訟の理念」で裁判を減らすべしという矛盾があった。
 裁判手続きでは、特定の日に訴状を審査することなく受け付け、その後、地方官が訴状を審査する「批閲」で、自由な裁量で樹里不受理を判断した。そこでも、無訟の理念で削減が目指されたため、訟師は借金の取り立てをめぐる民事裁判を、取り立ての途中で暴力を受けて死んだだの、負傷しただのと刑事事件にすり替えるなど、批閲をすり抜けようと潤色するようになる。


 近世に入り、訴訟が増えると、訟師を「積慣の訟棍」として弾圧するようになる。訟師は、科挙で官僚になる程の成績を残せなかったが、国営の学校に通い、儒教の知識を身につけた知識人であった。場合によっては、地域の名士として、税金をめぐる交渉や法律の碑文を書くなどの政府の用に関わることもあった。一方で、役人や有力者の既得権益を侵すと、訟棍として消される。
 あるいは、だいたいは地方官は事なかれ主義で、訴状の代書を黙認するが、たまにやたらと熱心な地方官がやって来て、弾圧する。よっぽど運が悪くない限り、訴状の代書で生計が立てられて、生き延びられる。


 北京に上訴にいくのを支援する人々も興味深い。刑事処罰の記録から二例ほど紹介されているけど、これ、どの程度の持続性があったのだろうか。どちらの事例も、数年で摘発されて処罰されている。京控を支援する企業は、持続性に欠けていたのだろうか。逆に、綿々とそういう業務が行われていて、摘発された例は、立ち回りが下手な人々だったのだろうか。


 最終的に清朝末期から中華民国時代に、ヨーロッパから法制が輸入されて、訟師は消滅していく。原告・被告を補佐することは解禁され、また、基本的には訴訟をすべて受け付ける努力が行われるようになる。弁護士にあたる律師が出現。また、地方官の興味を引く潤色は必要なくなって、形式的な審査に通るだけの文書を書ければいい私代書で十分になる。上と下から挟撃を受けて、訟師は必要なくなっていく。一方で、案件の処理が追いつかなくなっていくという…
 そして、現代。中華人民共和国では和解や調停で紛争を解決するのがメインで、弁護士が長らく消滅していた。あるいは、国家的な判断が必要な案件では、下級裁判所が受付を拒否する「立案審査」制度とか、裁判所が他機関の調停に誘導するなど、裁判を抑制する仕組みが強いとか。なんか、別世界感がすごいなあ。


 他の文明圏との比較も印象深い。江戸時代の公事宿やイギリスのペディフォッガーなどの「似てる」ような存在でも、そもそも存在を認められないということはない。あるいは、むしろ公証人的な機能の強いイスラム法学者の法廷とか。
 全体として、社会の紛争を解決する手段として、どの程度の役割があったのか見えないのが物足りない。躍起になって、明や清の政府が訟師を潰そうとしてた姿ばかりが印象的で…