ブリュノ・ロリウー『中世ヨーロッパ食の生活史』読了

中世ヨーロッパ 食の生活史

中世ヨーロッパ 食の生活史


後期中世のヨーロッパの食生活全般を扱った概説。
食料の供給、宗教的・文化的規制、上流階層の贅沢な食生活とマナーなど、14・15世紀の食に関する全ての面を扱っている。
全体を概観するには適切な本。
スパイス貿易に関連してよく言われる、ヨーロッパでは肉を塩漬けするから、におい消しのために胡椒が必要とされたなる言説が誤りであることが分かる。
現代人の味覚に合うかどうかは別として、それなりに豊穣な食の世界が広がる。
ただ、本書には参考文献・注の類がほとんどない。これはもともとないのか、日本語版が省いたのか不明。
あと、著者はドイツ語が読めないのか、文化的な問題か、ほとんどドイツ以東の状況が出てこないのが可笑しい。


以下、雑穀・粥に関するメモ。

「きびを食べる人々」の集団は、数は少ないが、長く生き残っていた。ジル・ル・ブーヴィエはギュイエンヌを訪れ、その地の住民は小麦を栽培しているが、それは売るためであって、彼らは小麦の代わりに「きびのパンで暮らしている」と書いている。それより三世紀前に、ガスコーニュの荒地ではきびがさかんに栽培され、聖地サンチアゴ・デ・コンポステラへむかう巡礼たちは小麦粉のパンをなかなか口にすることができなかった。中世の遺跡から出土した植物の種によって、トゥールーズ地方と東ピレネー地方がきびの主産地であることが明らかになった。その地方にある遺跡の20パーセントからきびが見つかっている。さらにきびは中世末においても、ボルドー地方の西に広がる荒地、ベアルン、ビゴール伯爵領に暮らす農民に課せられた数多くの賦課租のひとつになっていた。18世紀になってもなお、医者のピエール・ゴンティエがガスコーニュの人々を「ミリオファージ」、つまり「きび食い」と呼んでいる。
(p.31-32)

ロンドンには、5万人の人口に対して1334軒の醸造所が存在し、いっぽうパン屋はたった50軒ほどしかなかった。(p.52)

これはパンがあまり食べられていなかったことを示すのか、あるいは外部からパンは供給されていたかパン屋一軒あたりの経営規模が大きかったのか。
ヨーロッパにおける粥の重要性を示す傍証になりうるか。

蕎麦は再び栽培されるようになった植物の一例である。14世紀末にドイツの古文書に登場し、その後1446年にブルターニュに近いマイエンヌ、1460年にコタンタン半島、さらに1497年にレンヌへと(「黒麦」の名で)広まったが、鉄器時代の蕎麦の花粉がブルターニュを含む西ヨーロッパ全域で確認されている。その後、オランダで12、3世紀の種子が見つかっていることから、そのころより再び栽培が始まったことがわかる。蕎麦が様々な長所を持つにもかかわらず、――雪や氷が消えたあとの補助作物として5月から6月に種をまき、酸性の土壌でも生育して並外れた収量をあげる(まかれた種子一粒につき48粒も収穫できる)――この新参の作物がブルターニュの食材に定着するのは14世紀になってからである。
(p.58)

ヨーロッパの北部と北西部では、ポーランドからイギリスまで、パンは挽き割りにした穀物、とりわけ燕麦で作られるブイイ(粥、オートミール)と競合していた。カクストンによると、ウェールズ人は「一種のグリュオーのスープにポロねぎ、バター、ミルク、細長くあるいはブロックに切ったチーズを加えて食べていた」。この料理はウェールズ地方の伝統的な料理「カウル」であると思われる。ピエモンテヴェネツィアでは、ソルゴ(「シリアの」という意味のsyricumに由来)というモロコシの一種から作られるポレンタ(粥)が広まっていた。ソルゴはのちにアメリカのトウモロコシにとって代わられる。隣接する地域のロンバルディア人は一般に、きびとミルクで作る「バニチウム」を食べていた。パンが存在していたように、ブイイのヨーロッパも存在していたのである。
(p.62-63)

当時の人々の目から見て、さらに驚くべきことは、他の地域では見向きもされない穀物を、ある地域全体でまだ食していることであった。すでに見たように、フランス南西部のきびがそれにあたる。早く実が熟し、保存期間が驚くほど長いために、とりわけ小麦が不足したとき、きびが注目されたことは間違いない。そして小麦が不足するというのは、中世末ではそう珍しいことではなかったのである。
(p.69)

しかし、ポワトゥーとガスコーニュのあいだにはランド地方の砂地の平原が広がっていた。ランド地方は「荒れ果てた国で、あらゆるものに不自由した」。なぜなら「パンもワインも肉も魚も泉の水もなく」、豊富に手に入るものと言えば、「蜂蜜、きび、(……)豚」ぐらいのものだったからだ。
(p.200-201)