「濟々黌初代校長 飯田熊太先生墓所」碑

 白山神社の北の道を、しばらく西に走ったところに墓地があり、そこにある石碑。道路から入ってすぐのところにあった。最近、お墓を見ると、立ち入って見渡す癖がつきつつあるな。ただ、墓誌の場合、どこまで立ち入って情報を出していいのか迷う。





墓本体

  明治廿九酉申年十月三日没
        享年七十四
飯田熊太墓
  配久野美津墓
     大正五年十一月四日卒
     久野氏光子八十六歳



碑文正面

濟々黌初代校長 飯田熊太先生墓所
    明治十五年二月〜明治十九年冬



石碑右面から裏面

飯田熊太先生は文政六年(一八二三年)十一月二十五日生れ、明治二十九年(一八九六年)十月三日死去 享年
七十四歳 名は良顕、熊之助と称す。後(明治三年八月)熊太と改名す。濟々黌創立者佐々友房の伯父(母方
の兄)に当たる。青少年のころ藩校時習館に入り文武の道を修行す。二十二歳(弘化三年)に居寮生に選ばれ、
三十二歳安政元年(一八五四年)時習館訓導となる。禄百石。この間誠実○厚。清廉簡易素朴尚武の風など、時習
館教育の長所を体得し大いに品格を高められた。


明治十二年正月佐々友房が学校設立を企画すると、菊池合志郡長であった先生は陰に陽に物心両面から支援鞭撻
された。その功あって一学舎を建設し、同心学舎と名づけて開校式をおこなったのが十二月五日であった。教育
の目標(三綱領)を掲げて十五年二月十一日紀元節の佳日を卜して堂々開校したのが私立濟々黌であった。当時
六十歳の先生は管理面では 初代黌長、教科の面では総教、いわゆる濟々黌の顔として 徳体智三育併進の全人
教育を実践し済々多士の育成に粉骨砕身された。     昭和三十年卒 安倍群明書



石碑右面

         濟々黌同窓会
平成六年七月建之  発起人 昭和十二年卒 乙丸勝幸
           同  昭和十二年卒 吉松和夫