藤原重雄『日本史リブレット79:史料としての猫絵』

史料としての猫絵 (日本史リブレット)

史料としての猫絵 (日本史リブレット)

 歌川国芳の浮世絵「鼠よけの猫」を出発点に、猫をモチーフとした絵画の流れを縦横無尽に語る。後半三分の一程度は、近世初頭の猫の社会的位置付けの変化。題材が猫でなければ、もっと熱心に読んだかもw
 猫の絵画の歴史。中国では、蝶とあわせて、長寿を願う吉祥画として、猫が描かれたこと。「鼠よけの猫」にある賛から、迫真性を強調するために、絵の何かを見て動物が避けた話の紹介。「新田猫」をはじめ養蚕地帯を中心に、鼠よけの呪符として貼り付けられた習俗。遡って、南北朝時代から鼠よけとして、禅宗寺院に猫の絵が受容されていた話。清涼殿の猫障子。あるいは、歌川国芳周辺で、猫の仕草などのモチーフが定型化され、使いまわされる姿。一枚の絵から、関連する絵画が次々と出てくる。視線や指差しが、見る者の視線を誘導するテクニックというのもおもしろい。絵画を、ありのまま評価する「印象派的絵画鑑賞」が一般的だが、歴史的な文脈、あるいは描く側がこう見て欲しいという仕掛けなどに目を凝らすことも必要ではないかと。あるいは呪物としての猫絵。猫絵のような些細なものでも、人を動かす。「呪術的」なさまざまな営みが、どれだけ人を動かしてきたか。メディアと呪術って、非常に通じるものがあるな。
 後半は、絵ではなく、実物の猫の話。戦国末、近世初頭、それまで紐につながれて飼われていた猫が、放し飼いに変わる。海外から輸入された希少な愛玩動物だったものが、都市化の進展にともなって、鼠を駆除する益獣としての側面が強くなる。慶長期に、猫盗み、売買の禁止令が出されていて、これが戯作にも反映されている。急速に需要が拡大し、供給不足の中で、よその猫を盗んで売却したりという事態が頻繁に起きたことが想定される。また、伝手をたよりに、猫が盛んにやりとりされていた様子が「時慶記」の記述を元に紹介される。江戸時代になると、だいぶ普及して、希少性は薄れる。また、放し飼いにした結果、同じく放し飼いだった犬に襲われて殺される猫も出てくるようになったと。
 一枚の絵の背後にある、膨大な歴史的事象。


 以下、メモ:

 さらにまた、寛政の内裏復興では、猫を描いた古い絵巻物が探しだされているが、こうした古図をはじめ、紙形・粉本といわれるお手本(しばしば白描ないし淡彩である)をもとに絵画が制作されることも通例であった。鎌倉時代成立の『絵師草紙』では、絵師の子どもたちが腹ばいになって、馬の絵をみながらそれを写して学んでいることが象徴的に示しているように、絵には描き方の型があり、それを模倣し転用することで本画は制作されていた。むろん写生や現地取材も行われているが、それ以上に、先行する絵画作品に学びつつ、そこに主題や注文に沿った創意・改変を加えながら画面はつくられていた。こうした紙形・粉本は、絵師の家やコーディネーター的な文化人のもとに残され、次なる制作のためのストックとなった。古い言葉となったが、「画嚢」とはこれら手本の収められた袋の意味である。このような蓄積の有無が、絵師としての力量を左右する大きな要因となったわけである。p.45-6

 絵師のあり方。お手本の蓄積が重要と。

 とはいえ、この絵をことのほか喜んだ愛猫家や国芳猫絵ファンにとっては、これまで分析してきた図像伝統や機能・メディア性はどうでもよいことであったかもしれない。国芳錦絵の前提となっている〈鼠除けの護符〉という枠組みは、猫の姿を絵に描くための口実、ないしは卓抜な猫のスケッチを版画として商品・景品化する仕立て、それを享受する方便でもあったのだろう。個別事象に流れ込んでいる歴史的な水脈と、個別具体的な局面との距離感は、歴史学における想像力の領域に属する問題でもある。p.58

 個人が楽しむことと、その前提となる枠組みの距離感か。他の事を言い訳にってのは、よくあることだしな。

 そして「鼠猫論」の鼠等申状では、猫の欠点の第一として「そもそも猫は獣の内の徒者(いたずらもの)なり。(中略)戦国の世が終焉を迎えゆくなかで社会問題化してきた浪人(いたずら者)問題と、悪しきものとしての猫が、力をもって弱き者に悪さをする表象として呼応するものであったろう。p.89

 実際、猫って悪さするしな。猫と食い詰めて悪さをする浪人が重ねられるのが興味深い。